2007年04月12日
毎日新聞連載 「心と技と」
建造物装飾 川面美術研究所−11
見えぬ色 解き明かす
川面美術研究所(右京区鳴滝本町)が、障壁画模写とともに、いや、ひょっとするとそれ以上に光彩を放っているのが建造物彩色だろう。文化財建築の彩色部分の塗り替え、塗り直しという世界は、研究所の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)によって道が開かれた、といっても過言ではないからだ。
文化財建築の保存修理の際、可能な限り創建当初の姿に戻すというルールが確立するのは1950(昭和25)年の文化財保護法制定以降である。しかし、彩色分野は遅れ、府文化財保護課によると、重要性が見直されるのは昭和40年代に入ってからという。
そんなことはない。日光東照宮を見てくれ。あそこは大昔から、いつもきれいに整備されている……とおっしゃるかも知れないが、日光は別格。創建以来、幕府が手厚く保護し、常駐する職人集団によって、たえず最高の技術で修理が行われてきたからだ。
「向こうは、彩色の歴史が綿々と続いている。図面もしっかり残っています。ただ、手法が京都とは全然違うんです。日光はまず、漆で真っ黒に地固めする。そこに胡粉(ごふん)を塗って白に戻してから、色をつけていきます。当然、厚塗りです。父は『京都は薄化粧やからな』と笑ってましたね」
川面の次女で、研究所代表の荒木かおり(49)の話である。手法が違うため、川面が建造物彩色の選定保存技術保持者だったように、日光社寺文化財保存会も選定保存技術の団体認定を受けている。ここでは、1業種1人(団体)の原則があてはまらないのだ。
さて、川面が切り開いた京都方式の彩色である。2002年、屋根の修理に伴い彩色復元をした洛北の名刹(めいさつ)・大徳寺の唐門(国宝)を例に、荒木の説明を聞いた。
大徳寺の唐門は、聚楽第の遺構を移築したもの。荒木によると、何回か移築されているにもかかわらず、彩色部分には一切修理の跡が見られなかったという。従って、動物や花、鳳凰、雲や波など一面に施された彫刻の色は落ち、創建時の姿は想像がつかなかった。
そこで「設計図」作りである。まず、彫刻を一つずつ図面に描き写す。一方で、彫刻のほこりを払うと、くぼみなどに色が残っていることがある。これをヒントに図面に塗り絵をしていく。まったく色が残っていない時は、風食痕や部材の酸化の具合、さらには化学的調査も加えて顔料を特定、図面を完成させる。
とはいえ、簡単に特定できるわけではない。
「コイの彫刻に紫色の断片が残っていたんです。紫というのは普通、混色しないと作れないのですが、それだと何百年も持たないはずです。これは何だ、ということで成分を分析したら、鉄分が出てきました。鉄分を含む顔料なら、岩絵の具ではなく、土系のベンガラ。ベンガラ格子のベンガラです。そこでベンガラ屋さんに聞くと、赤いベンガラも焼くと紫に近い色になるというんです。これがわかった時はうれしかったですね」
こんな調子である。こうして各パーツの設計図が完成すると、全体の復元予想図をつくり、文化庁のOKを待って、彫刻に色を塗っていく。荒木によると、設計図作りが全体の70%。大徳寺唐門の場合も、3年の作業のうち、設計図に2年半もかかったとか。
「父の生前は、父が権威でしたが、今は文化庁や府の担当者も勉強してますからね。我々もうかうかしていられません。結構激しく議論しながら、やっているんです」
(毎週木曜日掲載。次回は15日。文中敬称略)【池谷洋二】
大徳寺の唐門
豊臣秀吉が天正15(1587)年に建造した聚楽第は、後に養子・秀次の居宅となったが、秀次謀反の疑いで断罪した際に破壊した。唐門だけは破壊を免れ、最終的に大徳寺に移築された。全体を覆う華麗な彫刻が特徴で、桃山建築の代表とされる。日が暮れるまで見飽きないことから「日暮門」ともいう。桧皮(ひわだ)ぶきの4脚門。
毎日新聞 平成19年3月8日掲載
毎日新聞連載 「心と技と」
建造物装飾 川面美術研究所−10
時代の空気を再現する
川面美術研究所(右京区鳴滝本町)が取り組んできた障壁画模写のうち、今回は「復元模写」について紹介したい。
復元模写とは、老朽化して形をとどめなくなった障壁画を、制作当初に戻って復元すること。色落ちばかりか、はく落して消えてしまった部分も復活させ、今日描かれたばかりの新品に仕上げる手法である。
復元模写の歴史は新しい。そして、今も需要が多いわけではない。その理由について、研究所代表の荒木かおり(49)は「文化財の障壁画には、もともと極彩色だったものが多いんです。そのまま再現したら、日本人の目には安っぽくみえるのでしょう」と言う。
わかる気がする。文化財でも骨とうでも、古いということ自体が重要な要素になっていることが少なくない。法隆寺が昨日建ったばかりのようだったら、魅力は半減してしまうだろう。
復元模写の一典型は、研究所が1998(平成10)年に大分県の依頼で行った、富貴寺(大分県豊後高田市)の大堂壁画模写だろう。富貴寺大堂は平安時代に建てられ、九州最古の木造建築物として国宝、内部の阿弥陀如来坐像と壁画は重文に指定されている。
ところが、壁画は風化し、絵の輪郭さえ定かでない。文化財として貴重でも、何が描かれているかよくわからない。そこで、県は大堂ごと実物大のレプリカを造って博物館に展示することにした。
実は、川面美術研究所は71(昭和46)年に、文化庁の依頼で同じ壁画の現状模写をしていた。30年の時をはさんで、現状ありのままの写しと復元の両方を手がけたことになるのだ。写真を見比べると、それぞれの模写の違い、意義がおわかりいただけると思う。
それでは、復元模写はどうやって進めるのか。
基本的には、前回紹介した古色復元模写と違いはない。本物をトレースして台紙(壁・板)に線を描き、色を乗せる。ただ、復元模写の場合は、本物がほとんど原形をとどめていないケースが多い。赤外線や斜光ライトといった光学的調査のほか、にかわ焼け(はく落していても、彩色していた部分にはにかわのしみが残る)、風触痕の有無などから、元の線や彩色の跡を調査、再現する。
そして色だが、研究所の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)は「その時代、地域、政治的背景をよく調べ、人々の美や季節、自然に対する感じ方を汲み取る。時代の色を再現することは、時代の空気を再現することである」と書き残している。
「例えば、平安時代なら絵画には紺丹緑紫(こんたんりょくし)という約束ごとがあります。紺色の隣には丹(朱)色、緑の隣は紫という具合です。また、菩薩の頭部は群青(ぐんじょう)色なのがほとんどですから、これを手がかりとして、同じ痕跡があれば群青色、隣は赤で、とこう推理していくわけです」
川面や荒木の話を聞くと、まるでパズルを解いているかのようだ。
最後に、写真の「阿弥陀浄土変相図」模写絵について、荒木に「再現正確度は、何パーセントぐらいと思うか」と、意地悪な質問をしてみた。
「図の線、形はかなり自信があります。8割から9割は再現していると思う。ただ、色については平成の絵描きがやったことですから、絶対に平安の色とは言い切れませんね」
(毎週木曜日掲載。次回は8日。文中敬称略)【池谷洋二】
富貴寺
養老2(718)年開創と伝えられる天台宗寺院。現存する大堂(阿弥陀堂)は、平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂の一つに数えられ、九州を代表する国宝建築物として知られる。大堂内の壁画は、写真の「阿弥陀図」のほか、内陣小壁に「阿弥陀如来並坐像」、外陣小壁に四仏浄土図などが描かれ、いずれも復元された。
毎日新聞 平成19年3月1日掲載
毎日新聞連載 「心と技と」
建造物装飾 川面美術研究所−9
どちらが本物なのか
川面美術研究所(右京区鳴滝本町)が1972(昭和47)年から30年以上にわたって続けている、二条城二の丸御殿の障壁画古色復元模写。研究所の創設者で、一昨年1月に91歳で亡くなった川面稜一らが試行錯誤の末にたどり着いた手法はこうである。
まず、オリジナルのトレースから。トレコート・フィルムというビニール系の紙を乗せ、墨と水絵の具でオリジナルの線を写す。後世、加筆されているものはこの時点で除き、傷みが激しくて欠落しているところは、学者と検討しながら慎重に復元していく。
一方で、模写絵を描く台紙を用意、新品から150年経過したという想定なので、泥絵の具を使って薄茶に塗っていく。自然な日焼け、風化した感じを紙そのものにつけておくのだ。次に線描きを終えたトレコート・フィルムを台紙に乗せ、捻紙(ねんし)という和製カーボン紙を間にはさみ、上から鉄筆でなぞると、台紙に線が転写される。
面倒なのは、ここからだ。狩野派によって描かれた二の丸御殿の障壁画は、金箔(ぱく)を多用しているものが多い。金箔の上には絵の具の顔料が乗りにくく、きれいな色が描けない。例えば、金色の地の上に花が描かれているような場合、あらかじめ花の部分に薄紙を張ってマスキング、金箔を一面に張った後で金箔ごと薄紙をはがして無地を出す工程が必要になる。絵の輪郭に合わせて薄紙を切り抜き、張っていく作業が続く。
それから金箔張り、薄紙はがし、色塗りと進むわけだが、金箔を張るのも、簡単にはく落しないよう、にかわを3層、4層に塗ったり、さらに金箔そのものにも古色をつけるために泥絵の具を10回も塗り重ねて汚したりと、素人の想像を絶する手間がかかるのである。
板戸の場合も同じ。台板に希塩酸を塗ってバーナーで焼き、古色を出してから、焼いて酸化を進めた顔料の岩絵の具を塗っていく。
「最初は、どうしても古びた板にならないんで、銘木店へ行って勉強したり……。板に古色をつけるだけで1カ月もかかったことがありました」
73年から、ここで模写を担当している研究所の主任画家、谷井俊英(57)の思い出である。
谷井の案内で、二の丸御殿に向かった。6棟あるうちの黒書院、大広間、そして白書院の一部は、天井画などを除けば既に模写絵に入れ替えられている。制作後400年を経過した本物と150年を想定して描かれた模写絵。実際に現場で見たら、どんな感じがするか、確かめたかった。
意外だった。模写室で見た時は、150年たったものにしては新しいように思えたのだが、現場では柱や長押(なげし)など昔のままの部材や天井画に溶け込み、落ち着いていた。そして、本物が展示されている部屋から目を移しても、どちらが本物どころか、どちらが古く見えるかすらも判然としなかったのである。
もう夕方で、薄暗かったこと。加えて、各部屋の絵は廊下の仕切りの外からしか拝観できないため、模写室で間近に見るのとは違いもあるだろうが、「わからない」を連発する私に、谷井はニコニコするばかりだった。
二の丸御殿では、模写絵は模写絵とはっきり掲示してある。「すべて模写絵に替わるには、あと20年はかかる」(谷井の話)ので、チャンスがあったら、ぜひ見比べていただきたい。私も、午前の光の中でもう一度見ようと思う。
(毎週木曜日掲載。次回は3月1日。文中敬称略)【池谷洋二】
岩絵の具
日本画の代表的な顔料。従来は天然の岩からとったが、産出量も少なく、最近は人造岩絵の具も多く出ている。群青(ぐんじょう)は藍銅鉱、緑青(ろくしょう)は孔雀石、珊瑚末(さんごまつ)は赤珊瑚が原材料で、絵の具として使うには、接着剤としてにかわが必要。時代を経ると酸化して黒っぽくなるため、あらかじめ焼いて酸化を進めてやると、古色のついた絵が描ける。
毎日新聞 平成19年2月22日掲載
2007年04月01日
第135回 都をどり
第一景 置歌 おきうた (銀襖ぎんぶすま) 長唄
第二景 下鴨神社初詣 しもがもじんじゃはつもうで (下鴨神社しもがもじんじゃ) 長唄
第三景 彦根屏風 ひこねびょうぶ (彦根城ひこねじょう) 別踊 長唄
第四景 清瀧川螢狩 きよたきがわのほたるがり (清瀧きよたき) 別踊 長唄
第五景 昔物語かぐや姫 うらしまたろうものがたり (西山にしやま) 別踊 浄瑠璃
第六景 嵯峨野紅葉 さがののもみじ (常寂光寺じょうじゃくこうじ) 長唄
第七景 越後雪野寒晒 えちごゆきののかんざらし (越後雪野えちごゆきの) 別踊長唄
第八景 金閣寺桜満開 きんかくじさくらまんかい (金閣寺きんかくじ) 長唄
美術 川面美術研究所
会 場 祇園甲部歌舞練場
京都市東山区祇園町南側
開演期間 平成19年4月1日〜4月30日
開演時間 1日4回公演
@12時30分
A14時00分
B15時30分
C16時50分
お問い合わせ 祇園甲部歌舞練場
電話 075−541−3391(代)
第58回 京おどり
一景 京風流花色彩 きょうふうりゅうはなのいろおどり
二景 神苑の花菖蒲 しんえんのはなしょうぶ
三景 女夫団扇売り みょうとうちわうり
四景 竹生島霊顕記 ちくぶしまれいげんき
五景 名花の花舞 めいかのはなまい
六景 錦繍の紅葉狩り きんしゅうのもみじがり
七景 宮川音頭(フィナーレ)
舞台装置 川面美術研究所
開催期間 平成18年4月7日(土)〜22日(日)
開催場所 宮川町歌舞練場
京都市東山区宮川筋4丁目306(四条京阪川端下ル)
開演時間 毎日3回
12時30分
14時30分
16時30分
開 場 各開演時間の30分前
料金(税込) 入場券・茶券付 4,300円
入場券 3,800円
お茶券 500円
プログラム 500円
お問い合わせ 宮川町歌舞会
電話075−561−1151〜4
2007年02月15日
毎日新聞連載 「心と技と」
建造物装飾 川面美術研究所−8
文化財保護原点に
春、秋の観光シーズンとはうって変わり、この時期の二条城(中京区二条城町)は、京の底冷えに沈み込んだように、静かで穏やかな素顔を見せてくれる。
東大手門から入場して左へ行けば唐門(からもん)。二の丸御殿の入り口である。逆に右に道をとれば、無料の休憩所、さらに奥に宝物を納めた近代的な収蔵館がある。その手前にある収蔵庫(旧)の一室に、1972(昭和47)年から30年以上にわたり二の丸御殿の障壁画1035面の模写作業を進める川面美術研究所(右京区鳴滝本町)の模写室が設けられている。
訪れた時、室内では研究所の主任画家、谷井俊英(57)と女性スタッフが作業中だった。横長の部屋に進行途中の模写絵が並び、見本用の襖(ふすま)絵の本物も1枚立てかけてある。振り向くと、後ろの壁に白い紙を張り合わせて作った巨大な「狩野派の系図」があった。
「狩野派といっても、人によって画風が違います。その違いがわからないと模写なんてできないんで、頭にたたきこんでおかないと……」と、谷井は言う。
二の丸御殿の障壁画は、狩野探幽を中心にした江戸初期の狩野派絵師集団の作である。谷井によると、模写対象の1035面に天井画などを加えた3000面以上の絵を、当時わずか1年ほどで仕上げている、という。
「もちろん、系図に出てくる師匠格の人だけでなく、大勢の絵師を使ってやったことでしょう。だから、棟によって、また部屋によっても作風が違うわけです」
30年も模写をしていると、古文書を見なくても、絵だけで誰の作品かわかるそうだ。
さらに、取って置きの面白い話を聞かせてもらった。将軍の居間兼寝室だった白書院。観光客に親しみやすいように、将軍の人形が展示されているが、人形の背面の床の間に狩野興以、または狩野長信の作とされる壁一面の山水画がある。その絵の左下隅に、小舟をこぐ人が小さく描かれている。
「小舟の絵は、明らかにほかとタッチが違います。紙を上張りした跡もあるんです。後世、誰かが加筆したわけですが、狩野派の絵師にしては稚拙なので、大正天皇の落書きでは? なんて冗談を言い合っているんですよ」
二条城は1884(明治17)年、宮内庁所管の二条離宮となり、1915(大正4)年には、大正天皇即位の大典もここで行われている。当然、大正天皇も白書院に滞在していることから、こんな“珍説”が生まれたようだ。
「私たちの模写では、この舟は描きません。せっかく再現するのですから、後世に付け加えられたものは除き、本来のものに帰してやる。文化財保護の原点からスタートしているわけです。そこが機械と違うところですね。デジタル複写など、どんなに技術が進んでも、機械にはできない人間ならではの技だと思います」
昨年末までに完成した模写は600面を超えた。遠侍(とおざむらい)、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟からなる二の丸御殿のうち、黒書院と大広間はすでに模写絵に入れ替えられ、本物は収蔵館に納められた。式台も絵はすべて出来上がって入れ替え待ち、白書院は部分的に入れ替えが始まっている。
古色復元模写とは、どのように行われるのか。次回はいよいよ、その手法をご紹介したい。
(毎週木曜日掲載。次回は22日。文中敬称略)【池谷洋二】
狩野派
室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、画壇に君臨した画家集団。室町幕府の御用絵師を務めた狩野正信を始祖とし、伝統的な水墨画に華麗な色彩を取り入れた独特な様式を創造した。代表的な絵師としては、正信の子の元信、元信の孫の永徳、永徳の孫の探幽などがいる。
毎日新聞 平成19年2月15日掲載
毎日新聞連載 「心と技と」
建造物装飾 川面美術研究所−7
150年分「古さ」プラス
元離宮二条城(中京区二条城町)。京都を代表する観光名所であり、全体が国の史跡、二の丸御殿は国宝、二の丸御殿庭園は特別名勝、さらには「古都京都の文化財」の一つとして、ユネスコの世界遺産にも登録されている。文化財の固まりのようなこの場所で、30年以上にわたって障壁画の模写作業が続けられ、私たちが拝観しているのが順次、模写絵に入れ替わっているのをご存知だろうか。
川面美術研究所(右京区鳴滝本町)が京都市から委託され、二の丸御殿の障壁画模写をスタートさせたのは1972(昭和47)年。研究所の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)が模写画家としても、建造物彩色の分野でも円熟期を迎えたころだった。
遠侍(とおざむらい)、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟からなる二の丸御殿には、3000面を超える障壁画が現存。うち954面が重要文化財に指定されている。模写は、老朽化が進む障壁画を収蔵館で厳重管理する代わりに、観光客には気軽に模写絵を見てもらおうというのが狙い。文化財絵画を中心に、1035面が対象になっている。
歴史上、二条城と呼ばれるものは大きく分けて四つある。現二条城は徳川家康が上洛時の宿所として築城したものを、三大将軍・家光が寛永3(1626)年に大改築したのがベースとされる。二の丸御殿の障壁画もこの時期とされ、どの部屋の襖(ふすま)や板戸、天井にも、狩野探幽を中心にした狩野派の絵師集団によって描かれた江戸初期の華麗な障壁画が残されている。
「柱や長押(なげし)などの部材や飾り金具はそのまま、絵だけを新調するわけです。ピカピカの新品絵にしたら、浮いてしまいます。かといって、1000面以上もありますからね。しみ一つまで忠実に模写していたら、時間がかかり過ぎて永遠に終わりません。そこで、周囲の雰囲気をこわさないように、新品に一定の古色をつけた『古色復元模写』の手法が導入されたんです」
模写事業が始まった翌73年から、二条城内にある模写室に詰めているという川面美術研究所の主任画家、谷井俊英(57)が説明してくれた。谷井は現在、京都造形芸術大学や京都精華大学で非常勤講師として模写を教える教員でもある。
前回書いたように、古色復元模写とは、この二の丸御殿の障壁画模写で初めて使われた技法。模写の監修をしていた故・土居次義京都工芸繊維大学名誉教授の命名であり、川面オリジナルだ。顔料を焼くことによって酸化を促進させ、年月を経た状態と同じ状態にして使用している。
でも、古色といっても、新品から何年くらいたったものを想定しているのだろうか。作業中の作品を見せてもらったが、素人目にはほぼ新品同様に思えたのである。
谷井によると、「これも試行錯誤の繰り返しでしたが、今は150年ぐらいを意識している」とか。「へえー、これで150年?」と首をかしげる私に、谷井は「古びた色はついていても、台紙そのものは新しいわけですから、間近で見れば新しく感じるかも知れません。でも、あと250年すれば、現時点で400年たっている本物の今の状態と、ほぼそっくりになっているはずです」と笑った。
二条城で展示されている本物と模写絵を、この目で確かめるのが楽しみになった。
(毎週木曜日掲載。次回は15日。文中敬称略)【池谷洋二】
四つの二条城
歴史上、二条城と呼ばれるのは、室町幕府十三代将軍、足利義輝の居城▽織田信長が建てた同十五代将軍・義昭の居城▽信長が京滞在中の宿所として設け、後に皇室に献上した二条新御所▽家康が京滞在中の宿所として建設した城−−の四つ。前三つは現存せず、今の二条城と場所も違うが、義昭の居城と二条新御所は同一のものとする説もある。
毎日新聞 平成19年2月8日掲載
毎日新聞連載 「心と技と」
建造物装飾 川面美術研究所−6
「現状」こそ模写の原点
昨年、前のシリーズで宮大工とともに京の寺を訪ね歩いていた際、ある名刹(めいさつ)で、文化財指定を受けている襖(ふすま)絵をデジタル複写するため、打ち合わせに来ていた一行と鉢合わせしたことがある。スーツをびしっと決め、いかにもパソコン世代といった若い男女。歯切れのいい説明のさまも、歴史の重さでどっしりと沈んだ現場の雰囲気の中では、何やら不似合いな感じがしたのを思い出す。
写真や印刷技術の進歩のおかげで、現物と見分けがつかないほど精巧な複製を作ることが可能になった。しかも、手作業で写すのと比べてはるかに短期、安価でできるのである。
「現状模写というのは、オリジナルの姿そっくりに模写することです。今はデジタル写真技術があるわけですから、依頼者サイドに立つなら、人の手による模写ではなく、デジタルでやればいいと思いますよ」
川面美術研究所(右京区鳴滝本町)の所長、荒木かおり(48)はさらりと言う。
前にも触れたが、文化財保護・保存のための模写には3通りの方法がある。今ある姿をそのまま写す「現状模写」、創作された新品状態に戻す「復元模写」、さらに、新品に適度な古色を加えた「古色復元模写」である。
例えば、オリジナルは宝物庫などで管理し、拝観者には複製品を見せて、気軽に文化財に親しんでもらう。こんな場合は、現状模写か古色復元模写を選ぶことが多いだろう。オリジナルを展示していた昨日と今日で、まるっきりモノが違ってはおかしいからだ。また、奈良・高松塚古墳の壁画のように、発見された時の状態そのものが考古学的に大きな意味を持つケースには、現状模写が欠かせない。
いわば、現状模写は絵画模写の原点である。川面美術研究所の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)が、法隆寺金堂壁画を皮切りに、平等院鳳凰堂の中堂扉絵、醍醐寺五重塔の初重(1層)壁画など高名な寺院の模写を手がけていたころ、模写といえばこの現状模写のことだった。
その手法を、改めて荒木から聞いた。
襖絵でも板絵でも、まずオリジナルを床に寝かせる。次に薄い美濃紙をオリジナルにかぶせて上部で固定、オリジナルが大きい場合、乗板という作業台をまたがせる。画家はその上に乗り、左手に巻き上げた美濃紙のロール部分、右手に絵筆を持つ。美濃紙から透けてオリジナルの輪郭が見えるが、細かい部分まではわからない。
そこで、左手を上下させてオリジナルと美濃紙を交互に視野に入れ、目の残像現象を利用して美濃紙の上に色を置いていく。薄い色を何度も何度も塗り重ねて、オリジナルと寸分たがわぬものに仕上げる。
結果、オリジナルが板や壁に描かれていたら、絵だけでなく板目や壁も描きこまれる。その場合、紙なのに板絵や壁絵のように見えることになる。手間がかかり、1日に仕上がるのは、わずか10センチ四方ほどという。
「確かに、一般の方から見れば大変な手間。絵描きの技量にも左右されますし……。デジタル写真でいいというのはそういう意味です。でも、現状模写をクリアして初めて、復元模写や古色復元模写ができるようになる。原点というだけでなく、我々にとっては基本中の基本なのです」
(毎週木曜日掲載。次回は8日。文中敬称略)【池谷洋二】
古色復元模写
川面美術研究所が1972(昭和47)年から続けている二条城二の丸御殿の障壁画模写で、初めて使われた手法。例えば、緑青(ろくしょう)という顔料は年月がたつと酸化により黒ずんで見えるが、あらかじめ焼いて酸化させた緑青を使えば、想定する年代の作品ができる。狩野派研究の第一人者で、模写の監修をしていた故・土居次義京都工芸繊維大学名誉教授が名付けた。
毎日新聞 平成19年2月1日掲載
毎日新聞連載 「心と技と」
建造物装飾 川面美術研究所−5
職人 同時に芸術家
昭和40年代に入ると、文化財建造物の彩色修理にも、一定のルールが定まった。一言で言えば、可能な限り創建当初の姿に戻すということである。その時々の事情で、塗り替えられているものは、出来る限り元に戻す。これ以上はく落したら、色を失う恐れがあるものは、補色するか、上塗りする。部分的に部材を新調せざるを得ないものは、全体の調和を考えながら新材に色をつける。
川面美術研究所(右京区鳴滝本町)の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)が1968(昭和43)年、六波羅密寺本堂(重文)の向拝(こうはい)の彩色復元を依頼されたころは、まさにそのルールが確立されつつあった時期。理屈はできても、技術についての教科書はなかった。
川面の二女で研究所の後継者、荒木かおり(48)によると、画家にとってキャンバスが紙と木、それも老朽化した立体構造物が相手では、技術的にまったく異なるものになるという。
「色を定着させるためには、顔料ににかわを加えるわけですが、和紙と木では配合が違う。また、同じ種類の木でも水分をどれほど含んでいるかによって違います。1本の柱でも雨ざらしになっている部分とそうでないころは、同じではないんです。普通の絵だと思ったら、まったく歯が立ちません」
含水機といって、肌年齢を調べるそれのように、木に押し当てて水分を測る機械を買ってきたり、懐中電灯(後にコールドライトを使うようになる)を横から当てて木の表面の状態や上塗りしてあるか調べたり……まさに、試行錯誤だったようだ。
六波羅密寺に続いて翌69年に手がけた、石清水八幡宮の本殿(重文)などの彫刻彩色。それから30数年たって色落ちが進み、昨年10月から、再び川面美術研究所が同じ彩色を担当している。新たな道を切り開いていたころの父の仕事を、自分の目でたどることになった荒木は言う。
「非常に絵画的な表現をしているんですね。彫刻だから、べたべた塗っても立体は立体なのに、いつも平面で仕事をしている絵描きの本能というか、デリケートな色の強弱をつけてある。また、彫刻のトラが、ただのトラじゃない。ちゃんと狩野派のトラになっているんです。筆先を追っていると、胸にくるものがあります」
以来、川面は二条城唐門(重文)の復元彩色、北野天満宮本殿(国宝)の復元彩色……と「数え切れないほど」(荒木の話)の建造物彩色を手がけ、97年に国の選定保存技術者に認定されている。
一方、原点である壁画模写も並行して続け、72年からスタートしたもう一つのライフワーク、二条城二の丸御殿の1000点を超える障壁画模写は、川面が亡くなった今も工房の重要な仕事になっているのだ。
川面稜一の足跡を駆け足で追ってみて、建造物装飾という仕事は、芸術家の範ちゅうなのか職人のそれか、素朴な疑問が残った。工房スタッフの1人、出口瑞(48)が話してくれた次の言葉が、ひょっとすると、謎の扉を開く鍵になるかも知れない。
「先生(川面稜一)は、私たちを指導してくださる時、ある時は『我々は職人やさかいな』とおっしゃるし、またある時は『職人やないさかいな』とおっしゃるんです。矛盾というか、相反する面をいつもお持ちでした」
次回からは、扉を開けて、建造物装飾の心と技に迫ってみたい。
(毎週木曜日掲載。次回は2月1日。文中敬称略)【池谷洋二】
コールドライト
光源とレンズの先が離れているため、熱を持たないライト。本来は顕微鏡写真撮影や医療機器用だが、川面稜一は風化した彩色表面の図柄識別に使った。光源から光ファイバーで光を送ると、均一に照らされ、顔料の痕跡部分に横から当てれば、風食差でできたわずかな段差が浮き上がる。状態によっては、2度塗り、3度塗りをしてあっても、元の図柄が分かることもあるという。
毎日新聞 平成19年1月25日掲載
毎日新聞連載 「心と技と」
毎日新聞連載 「心と技と」
建造物装飾 川面美術研究所−4
文化財に絵描きの心を 川面美術研究所(右京区鳴滝本町)の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)が、建造物彩色の第一人者として国の選定保存技術者に認定されたのは1997(平成9)年である。建造物彩色とは、文化財建造物の柱や壁、天井、彫刻などに施された彩色を修理・復元する技術であり、川面が文化財にかかわるスタートになった壁画模写は含まれていない。
川面と建造物彩色との出合い−−。川面の二女で研究所代表の荒木かおり(48)によると、56(昭和31)年ごろ、平等院鳳凰堂の扉絵模写を手がけた際、府文化財保護課の技師、大森健二に、併せて翼廊(国宝)の柱の朱塗りを依頼されたのがきっかけという。
10円玉を見たらわかるように、鳳凰堂は中央の中堂から翼が生えたように左右に廊下が延びている。これが翼廊である。風雨にさらされるため、ほかと比べ色落ちが激しかった。
本来、こうした朱塗りは専門の職人が行う。しかし、全体の塗り替えならまだしも、翼廊だけピカピカになったらおかしい。「画家の川面にやらせたら、周囲とのバランスを考えて古色っぽくできるんじゃないか」。大森は、そう考えたようだ。
「恐らく、これが文化財建造物の彩色に絵描きの心が持ち込まれた最初ではなかったでしょうか」
荒木は言う。
従来、社寺の修理では、宮大工や建具大工、屋根職人、壁職人らに加えて、装飾部門を受け持つ飾り金具職人や金箔(ぱく)師、漆師らも参加。彩色には彩色職人がいた。いずれも職人であり、画業を生業にする者の領分ではなかった。
結果、社寺によっては、修理の際の都合で塗り変えられ、創建当初の色や模様とはかけ離れてしまうことが珍しくなかった。細かい模様の上に漆をべた塗りして図柄を消したり、さらに後年、その上に新たに模様を描いたり……。
画家に繊細な塗り替えを頼んできたとはいえ、彩色のルールはまだ固まっていなかった。朱塗りを終えて、壁画の模写の世界に戻った川面が、建物彩色の仕事に再び駆り出されることはなく、府教育委員会に頼まれるのは、調査の範囲にとどまった。彩色部分について顔料は何か、何度塗り直されているか、元の図柄はどうであったか、などのデータをとるための出番だったのである。
府教委によれば、建造物彩色の重要性が言われるようになるのは昭和40年代に入ってから。さすがに文化財建造物では乱暴な塗り替えなどはなくなっていったが、調査して記録はするものの、色落ちしている部分にはく落止めをするかどうか、ぐらいが彩色修理の範囲だったという。
そして、68(昭和43)年。解体修理していた東山区・六波羅密寺本堂(重文)の向拝(こうはい)の彩色を復元するよう、川面は依頼される。これが建造物彩色の本格的な第一歩だった。
続いて翌69年には、八幡市の石清水八幡宮の本殿(重文)などの唐破風(からはふ)彫刻の復元彩色。さらには74年、二条城唐門(重文)の復元彩色。
「試行錯誤の連続だったみたいです。だって、復元彩色なんて、それまで誰もやったことがないんですから……。でも、父はいろいろと工夫したりすることが好きでしたから、苦労も楽しかったようですね」と、荒木は笑った。
(毎週木曜日掲載。次回は25日。文中敬称略)【池谷洋二】
選定保存技術
1975年の文化財保護法改正に伴って新設された制度。文化財保護のために欠かせない技術、技能で、保存措置を講じる必要があるものを、文部科学大臣が選定保存技術とし、その保持者及び団体を認定している。「文化財保護関係の人間国宝」と呼ばれることも。選定数は04年10月現在で、建造物木工(宮大工)、木像彫刻修理、邦楽器糸製作など62件。
毎日新聞 平成19年1月18日掲載