2009年03月15日
【重要文化財】石清水八幡宮本殿外殿ほか4棟保存修理工事 完了
2009年03月14日
2008年12月13日
2008年12月02日
NHK 「ビギンジャパノロジー」(副題 城)放映のお知らせ
(内容)
□ ”ジャパノロジー”とは、『日本学』。 これまで伝えられてきた紋切り型の「日本人」や
「日本文化」の枠を壊し、日本の魅力を新しい切り口で世界に発信する、英語と日本語の
2か国語番組です。
今回のテーマは 「 城 」です。
□ 当社が、熊本城本丸御殿にて障壁画を描いている作業の様子が放映されます。
(放送日)
・ NHK国際放送にて
2008年12月5日(金) 8:15〜8:44(日本時間)
以降、各国の時差を考慮し、複数回にわたって時差再生
・ 国内では、
NHK総合にて
2008年12月8日(月) 午前1時45分〜2時14分放送予定
(但し、関西地区の放映はありません)
2008年03月06日
平成20年【都をどり】開催のお知らせ
テーマは源氏物語。
当社では舞台背景画の制作を担当しました。
皆様、ふるってご来場くださいませ。
期間:4月1日〜4月30日
会場:祇園甲部歌舞練場
http://www.miyako-odori.jp/miyakoodori/index.html
2008年02月09日
知恩院 経蔵〈京の冬の旅初公開〉
京都市観光協会主催で、平成20年1月12日(土)〜3月18日(火)の期間、普段見学することのできない彫刻・襖絵・庭園・建築など10箇所の非公開文化財が特別公開されております。
修復後、初の特別公開です。
内部には、腰面には下から蓮池、普賢・文殊菩薩、麒麟、天井などの上部には飛天や飛楽器が極彩色で描かれ、浄土の空間が表現されております。
←JRのポスターにもなってますね。
2008年02月02日
熊本城本丸御殿関係テレビ放映予定のご案内
その様子が、以下の番組等でいち早くご覧いただけます。
『よみがえる桃山文化 熊本城本丸御殿復元』(NHKデジタル衛星ハイビジョン全国放送)
『くまもと「まち×ひと」チャンネル特別編』(KAB及びWebTVくまもと「まち×ひと」チャンネル)
『よみがえる桃山文化 熊本城本丸御殿復元』(NHK総合テレビ九州・沖縄スペシャル)
『立松和平がたどる「それからの清正」』(RKK[TBS系列の九州各局])
『そのとき歴史が動いた「桐の花よ永遠に」(加藤清正)』(NHK総合テレビ全国放送)
2007年05月09日
平成18年度 川面美術研究所 事業概要
●明治記念館若竹の間壁画制作(東京都港区)
●【市指定文化財】神應寺書院障壁画剥落止め(京都府八幡市)
●【国宝】銀閣寺(慈照寺)銀閣(観音殿)障壁画調査(京都府京都市)
●【府指定文化財】禅林寺(永観堂)阿弥陀堂彩色調査(京都府京都市)
●身延山久遠寺大本堂天井画剥落止め(山梨県南巨摩郡)
●【重要文化財】石清水八幡宮本殿及び外殿ほか4棟彩色保存修理(京都府八幡市)
●伏見稲荷大社神馬像修理(京都府京都市)
●清水寺随求堂厨子彩色修復(京都府京都市)
●【重要文化財】伏見稲荷大社権殿蟇股彩色修復(京都府京都市)
●熊本城本丸御殿昭君之間障壁画天井画及若松之間障壁画第四期工事(熊本県熊本市)
●【重要文化財】二条城二之丸御殿白書院障壁画復原模写(京都府京都市)
●第49回祇園をどり「花簪四季彩」美術制作(京都府京都市)
●第135回都をどり「都風流名所絵巻」美術制作(京都府京都市)
●第58回京おどり「都四季姿舞扇」美術制作(京都府京都市)
2007年04月13日
毎日新聞連載 「心と技と」
建造物装飾 川面美術研究所−13
飽「色」時代 続く手探り
紅葉の名所として知られる左京区の永観堂(禅林寺)。本尊の阿弥陀如来像(みかえり阿弥陀像。重文)を祭る阿弥陀堂では、この4月から彩色修理がスタートする。手がける川面美術研究所(右京区鳴滝本町)にとっても、創設者の川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)不在で取り組む、初めての本格的な建造物彩色現場である。
現在の阿弥陀堂は、慶長2(1597)年、大阪・四天王寺の曼荼羅(まんだら)堂として建立。慶長12年、永観堂に阿弥陀堂として移築された。その後何度も彩色修理が行われているが、修理の仕方がその都度バラバラだったため、老朽化したのを機に慶長12年当時の姿に統一することになったという。
「移築の際、一部を改築しているので、彩色も手直ししているはず。それを含めると、5回ほど修理しています。できれば慶長2年と12年を区別、対比できたら面白いと思っているのですが……」
総指揮をとる、川面の次女で研究所代表の荒木かおり(49)である。
例えば、外柱。今はベンガラで赤く塗られているが、調査の結果、その下に黒い漆のベタ塗り層があり、さらにその下は、上部に巻き下げ文様、下部に波が描かれていた。
創建当初に巻き下げと波、次の修理では細かい作業を避けて漆塗りに、さらにより安価なベンガラに、と変遷したように見えるが、外柱には、四天王寺から移した時に高さを変えたらしく、根元に継木がしてあった。
「波の文様は継いだ方の新材にも描かれていましたが、文様自体は継いだようでなく、自然でした。ひょっとすると、波は最初からあったのではなく、継ぎ跡を隠すために移築段階で描かれたのかも知れません」
当初は巻き下げ文様だけだった。なるほど、興味深い話である。
驚いたのは、内装の4分の1ほどは手をつけないと聞いたことだ。本尊のみかえり阿弥陀像に向かって左奥の部分(北脇陣)は、現状のまま残すという。修理が終わると、室内の4分の3は絢爛(けんらん)豪華な慶長期の色彩世界を再現、残りは老朽化という、ちょっと不思議な空間になるのだ。
「文化財として、現状変更をしない部分を残そうということなんですね。北脇陣は傷みが少なかったことに加え、参拝者は横を向いた阿弥陀さまのお顔を見るため、右の奥には行きますが、左側は比較的目に触れないということもあります」
なるべく補彩で済ませすべてをピカピカにはしない、という前回掲載の西本願寺御影堂修理と発想は同じだが、やり方が違う。文化財保存の基本原則の反映ということは理解しても、素人目には、彩色修理のルールはまだ試行錯誤、発展途上段階にある、という感じがするのは否めない。
その根底には、模写絵の時に荒木が言った「極彩色をそのまま再現したら、日本人の目には安っぽくみえる」ということもあるのだろう。文化財を彩る色と文様、そしてその保護・保存の問題。川面稜一が切り開き、育ててきた建造物彩色の世界は、今後どこへ向かうのだろうか。
新しい研究所を率いる荒木が語る。
「昔は庶民の生活には色彩が乏しく、寺など宗教の世界に色が満ちていた。まばゆい色彩の世界は、地味な日常に対する非日常空間だったわけです。今は逆で、市民生活に色彩があふれ、寺からは色が消えてしまった。色がない方が非日常で、貴重なのですね。そんな現代人に受け入れられる彩色とは何か。建造物装飾の心と技を、どうやって次世代につなぐか。それが私たちの使命だと思っているのです」
(文中敬称略)
連載「心と技と」は、春の紙面改革に伴い今回で終了することになりました。ご愛読ありがとうございました。
【池谷洋二】
みかえり阿弥陀像
首を左後ろに向けた珍しい阿弥陀像。寺伝によると、永保2(1082)年、禅林寺中興の祖とされる七世法主、永観が阿弥陀像の周りを念仏しながら行道していると、突然、阿弥陀像が壇を降り、永観を先導して行道を始めた。驚いた永観が立ち止まると、阿弥陀像は振り返って「永観、遅し」と言った。以来、その姿を現代に伝えているという。
毎日新聞 平成19年3月29日掲載
2007年04月12日
毎日新聞連載 「心と技と」
建造物装飾 川面美術研究所−12
むやみに新調せず保存
前回ご紹介した大徳寺・唐門の彩色修理は、ほとんど落ちてしまった建造物の色を復元する話だった。屋外で風化も早いことから、あえて古色はつけず、創建時並みの華麗な色調に仕上げた。ならば、老朽化はしていても、まだ色が残る室内の場合はどうか。川面美術研究所(右京区鳴滝本町)が2001年度から05年度まで行った西本願寺・御影堂(重文)の修復工事現場を訪ねた。
御影堂は寛永13(1636)年の建立。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートルの巨大な建物で、西側中央に親鸞上人の木像を祭った内陣、その左右に余間(よま)と呼ばれる部屋、余間の外側に三の間、さらにその外側に飛燕(ひえん)の間と、左右対称に計七つの部屋が一列に並んでいる。東側はそれらの部屋の分だけ横に長い、大広間のような外陣である。
修復工事は、建物の老朽化に伴い、1998年から10年がかりで続けられている。研究所はうち七つの部屋と内外陣の境界の、それぞれ長押(なげし)から上に施された彩色部分の修理を担当した。
研究所の現場主任だった仲政明(46)の案内で、まだ内装工事が続く御影堂の中に入った。修理前の様子は、いつも灯明がともされていた内陣がススに覆われて全体に黒ずみ、内陣から離れるのにつれて、色や模様がはっきり残っていたという。
どう修理するか。文化庁の最終的な結論は、彩色の残存状態が比較的に良好として、現在の色をベースとした現状保存でいくとした。これは、できる限り元の古材を利用し、むやみに新調しない、とする部材の考え方と基本的に同じであり、ピカピカに復元した唐門のケースとは明らかに異なる。
結果、素人目には、長押より下の柱に施された真新しい金箔(ぱく)のまばゆさに比べ、赤、青、緑、黄と多色が使われているにもかかわらず、彩色部分はくすんで暗く見えるのだが……。
「それでは」と、仲に内陣背後の天井近くにある二つの彩色組み物を見せてもらった。一つはあえて手を付けず、もう一つは唐門並みに完全復元してあった。普通は見えない場所なので、後世にサンプルとして残したという。手付かずの方が真っ黒なのは当然として、復元彩色の方は色が鮮やかすぎて重みに欠ける気がした。
どうやっても不満が出るのだから、素人というのは勝手なものである。
御影堂は、過去に何度も修理しているが、今回の調査で、文化7(1810)年の修理の際、彩色はすべて塗り替えられていることがわかった。彩色層を見ると、創建時の色を胡粉(ごふん)で白く塗りつぶし、その上に絵を描き直してあったのだ。
「はく落も、上層のみはげ落ちたもの、下層からゴソッと落ちたものとさまざまでしたが、すべて文化年間の彩色に統一しました」
顔料もなるべく文化年間に使われたものを選んだが、建造物に使われる絵の具は、岩絵の具中心の日本画と比べ多彩だという。有機顔料の藍、ヒ素、石灰、草の汁。
「岩絵の具は高価ですから、壁や柱にそうは使えません。面白いのは、創建時の寛永年間とも違うこと。寛永年間の彩色には群青(ぐんじょう)が極端に少ないんです。このころ、日光東照宮が造られていますから、群青はみなあっちに持っていかれてしまったのではないでしょうか」
仲の推理である。
「私たちの修理だって、100年後、200年後に何と言われるか。そう思うと、謙虚に現状の形で保存しておくことが大切ではないでしょうか」
(次回は29日。文中敬称略)【池谷洋二】
内陣
社寺で神体や本尊を安置している場所。仏教では本来、参拝者は堂の外からお参りした。時代が下って、参拝者も堂内に入れるようになると、仏の場所を内陣、参拝者の場所を外陣と分け、その境を結界として段差をつけたり、扉を設けるようになった。宗派によって差はあるが、内陣の中は極楽世界を表すものとして絢爛(けんらん)に装飾されていることが多い。
毎日新聞 平成19年3月15日掲載