2009年06月01日

西本願寺新報(2009.6.1)

西本願寺新報の2009年6月1日号西本願寺御影堂の彩色修復作業を指揮した川面美術研究所所長・荒木を、西本願寺新報の記事で取り上げて頂きました。写真の背後に写るのは西本願寺書院「虎の間」の復元した竹の絵です。西本願寺新報.jpg
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2009年05月11日

京都三条ラジオカフェ『きょうと・人・まち・であいもん』


●社団法人京都府建築士会によりますラジオ番組『きょうと・人・まち・であいもん』(FM放送局の京都三条ラジオカフェ)にて、荒木出演のご案内です。

 
2009年5月30日(土)15:00〜15:30
「ただいま参上」コーナー(5月の月間テーマ「職人さん」)
テーマ:「二条城障壁画模写事業」についてお話しました。

http://radiocafe.jp/



↑放送内容をお聞きいただけます。





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2009年04月14日

『府民だより』平成21年4月号(第336号)

『府民だより』平成21年4月号(第336号)の12面に、川面美術研究所が担当しております、都をどり舞台背景画の記事が掲載されました。「絵師」荒木(川面美術研究所所長)の舞台制作の様子がご覧いただけます。
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2009年04月05日

『読売新聞』2009年3月5日夕刊4版


20090305

130年以上続く「都をどり」背景画制作に取り組む所長荒木の姿を、読売新聞に取り上げていただきました。
おかげさまで今年の都をどりは大盛況です。
ちなみに第8景は弊社が4年をかけて修復した、石清水八幡宮を画題としました。





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2009年03月14日

ふでばこ

白鳳堂さんの季刊誌『ふでばこ』18号に弊社の記事を掲載いただきました。今回のテーマは「あか」ということで、絵の具から社寺の彩色技術に至るまで、丁寧な取材を重ねられ充実した内容にして頂きました。ありがとうございました。多くの方々にご覧頂ければ幸いです。
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2008年12月13日

『小堀遠州』出版

『小堀遠州―気品と静寂が貫く綺麗さびの庭 (KTP BOOKS―シリーズ京の庭の巨匠たち)』が、京都通信社より出版されました。遠州の関わった庭園が、豊富な写真と図版で解説された、充実した内容となっています。

孤篷庵にて、弊社所長荒木が参席した対談の様子も掲載されています。長年障壁画を制作してきた立場から、庭園と障壁画の関係や、江戸初期における造形趣向についてお話しました。
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2008年12月02日

NHK 「ビギンジャパノロジー」(副題 城)放映のお知らせ

  (内容) 
        □  ”ジャパノロジー”とは、『日本学』。 これまで伝えられてきた紋切り型の「日本人」や
           「日本文化」の枠を壊し、日本の魅力を新しい切り口で世界に発信する、英語と日本語の
           2か国語番組です。
           今回のテーマは 「 城 」です。
        □  当社が、熊本城本丸御殿にて障壁画を描いている作業の様子が放映されます。
    (放送日)
         ・ NHK国際放送にて
             2008年12月5日(金) 8:15〜8:44(日本時間)
               以降、各国の時差を考慮し、複数回にわたって時差再生
         ・ 国内では、
             NHK総合にて
             2008年12月8日(月) 午前1時45分〜2時14分放送予定

                                                                (但し、関西地区の放映はありません)
   
          

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2008年02月02日

熊本城本丸御殿関係テレビ放映予定のご案内

熊本城.jpg熊本城の本丸御殿復元事業が完成を迎え、平成20年4月20日から一般公開されます。当社では、計画7年、実制作4年をかけて床・棚・襖等の障壁画制作を担当しました。
その様子が、以下の番組等でいち早くご覧いただけます。

平成20年2月10日(日),午後3時〜(85分)
『史上最強!よみがえる熊本城』(KKT西日本ブロック12社ネット)

平成20年2月10日(日),午後7時〜8時50分
『よみがえる桃山文化 熊本城本丸御殿復元』(NHKデジタル衛星ハイビジョン全国放送)

平成20年2月11日(月、祝日),午後10時30分〜
『くまもと「まち×ひと」チャンネル特別編』(KAB及びWebTVくまもと「まち×ひと」チャンネル)

平成20年2月15日(金),午後7時30分〜8時43分
『よみがえる桃山文化 熊本城本丸御殿復元』(NHK総合テレビ九州・沖縄スペシャル)

平成20年2月16日(土),午後2時〜2時54分
『立松和平がたどる「それからの清正」』(RKK[TBS系列の九州各局])

平成20年2月20日(水),午後10時〜10時43分
『そのとき歴史が動いた「桐の花よ永遠に」(加藤清正)』(NHK総合テレビ全国放送)



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2007年04月13日

毎日新聞連載 「心と技と」 

  毎日新聞連載 「心と技と」 
建造物装飾 川面美術研究所−13
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飽「色」時代 続く手探り



 紅葉の名所として知られる左京区の永観堂(禅林寺)。本尊の阿弥陀如来像(みかえり阿弥陀像。重文)を祭る阿弥陀堂では、この4月から彩色修理がスタートする。手がける川面美術研究所(右京区鳴滝本町)にとっても、創設者の川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)不在で取り組む、初めての本格的な建造物彩色現場である。

 現在の阿弥陀堂は、慶長2(1597)年、大阪・四天王寺の曼荼羅(まんだら)堂として建立。慶長12年、永観堂に阿弥陀堂として移築された。その後何度も彩色修理が行われているが、修理の仕方がその都度バラバラだったため、老朽化したのを機に慶長12年当時の姿に統一することになったという。

 「移築の際、一部を改築しているので、彩色も手直ししているはず。それを含めると、5回ほど修理しています。できれば慶長2年と12年を区別、対比できたら面白いと思っているのですが……」

 総指揮をとる、川面の次女で研究所代表の荒木かおり(49)である。

 例えば、外柱。今はベンガラで赤く塗られているが、調査の結果、その下に黒い漆のベタ塗り層があり、さらにその下は、上部に巻き下げ文様、下部に波が描かれていた。

 創建当初に巻き下げと波、次の修理では細かい作業を避けて漆塗りに、さらにより安価なベンガラに、と変遷したように見えるが、外柱には、四天王寺から移した時に高さを変えたらしく、根元に継木がしてあった。

 「波の文様は継いだ方の新材にも描かれていましたが、文様自体は継いだようでなく、自然でした。ひょっとすると、波は最初からあったのではなく、継ぎ跡を隠すために移築段階で描かれたのかも知れません」

 当初は巻き下げ文様だけだった。なるほど、興味深い話である。

 驚いたのは、内装の4分の1ほどは手をつけないと聞いたことだ。本尊のみかえり阿弥陀像に向かって左奥の部分(北脇陣)は、現状のまま残すという。修理が終わると、室内の4分の3は絢爛(けんらん)豪華な慶長期の色彩世界を再現、残りは老朽化という、ちょっと不思議な空間になるのだ。

 「文化財として、現状変更をしない部分を残そうということなんですね。北脇陣は傷みが少なかったことに加え、参拝者は横を向いた阿弥陀さまのお顔を見るため、右の奥には行きますが、左側は比較的目に触れないということもあります」

 なるべく補彩で済ませすべてをピカピカにはしない、という前回掲載の西本願寺御影堂修理と発想は同じだが、やり方が違う。文化財保存の基本原則の反映ということは理解しても、素人目には、彩色修理のルールはまだ試行錯誤、発展途上段階にある、という感じがするのは否めない。

 その根底には、模写絵の時に荒木が言った「極彩色をそのまま再現したら、日本人の目には安っぽくみえる」ということもあるのだろう。文化財を彩る色と文様、そしてその保護・保存の問題。川面稜一が切り開き、育ててきた建造物彩色の世界は、今後どこへ向かうのだろうか。

 新しい研究所を率いる荒木が語る。

 「昔は庶民の生活には色彩が乏しく、寺など宗教の世界に色が満ちていた。まばゆい色彩の世界は、地味な日常に対する非日常空間だったわけです。今は逆で、市民生活に色彩があふれ、寺からは色が消えてしまった。色がない方が非日常で、貴重なのですね。そんな現代人に受け入れられる彩色とは何か。建造物装飾の心と技を、どうやって次世代につなぐか。それが私たちの使命だと思っているのです」

(文中敬称略)

 連載「心と技と」は、春の紙面改革に伴い今回で終了することになりました。ご愛読ありがとうございました。
【池谷洋二】




みかえり阿弥陀像
 首を左後ろに向けた珍しい阿弥陀像。寺伝によると、永保2(1082)年、禅林寺中興の祖とされる七世法主、永観が阿弥陀像の周りを念仏しながら行道していると、突然、阿弥陀像が壇を降り、永観を先導して行道を始めた。驚いた永観が立ち止まると、阿弥陀像は振り返って「永観、遅し」と言った。以来、その姿を現代に伝えているという。



毎日新聞 平成19年3月29日掲載
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2007年04月12日

毎日新聞連載 「心と技と」 

毎日新聞連載 「心と技と」 
建造物装飾 川面美術研究所−12

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むやみに新調せず保存



 前回ご紹介した大徳寺・唐門の彩色修理は、ほとんど落ちてしまった建造物の色を復元する話だった。屋外で風化も早いことから、あえて古色はつけず、創建時並みの華麗な色調に仕上げた。ならば、老朽化はしていても、まだ色が残る室内の場合はどうか。川面美術研究所(右京区鳴滝本町)が2001年度から05年度まで行った西本願寺・御影堂(重文)の修復工事現場を訪ねた。

 御影堂は寛永13(1636)年の建立。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートルの巨大な建物で、西側中央に親鸞上人の木像を祭った内陣、その左右に余間(よま)と呼ばれる部屋、余間の外側に三の間、さらにその外側に飛燕(ひえん)の間と、左右対称に計七つの部屋が一列に並んでいる。東側はそれらの部屋の分だけ横に長い、大広間のような外陣である。

 修復工事は、建物の老朽化に伴い、1998年から10年がかりで続けられている。研究所はうち七つの部屋と内外陣の境界の、それぞれ長押(なげし)から上に施された彩色部分の修理を担当した。

 研究所の現場主任だった仲政明(46)の案内で、まだ内装工事が続く御影堂の中に入った。修理前の様子は、いつも灯明がともされていた内陣がススに覆われて全体に黒ずみ、内陣から離れるのにつれて、色や模様がはっきり残っていたという。

 どう修理するか。文化庁の最終的な結論は、彩色の残存状態が比較的に良好として、現在の色をベースとした現状保存でいくとした。これは、できる限り元の古材を利用し、むやみに新調しない、とする部材の考え方と基本的に同じであり、ピカピカに復元した唐門のケースとは明らかに異なる。

 結果、素人目には、長押より下の柱に施された真新しい金箔(ぱく)のまばゆさに比べ、赤、青、緑、黄と多色が使われているにもかかわらず、彩色部分はくすんで暗く見えるのだが……。

 「それでは」と、仲に内陣背後の天井近くにある二つの彩色組み物を見せてもらった。一つはあえて手を付けず、もう一つは唐門並みに完全復元してあった。普通は見えない場所なので、後世にサンプルとして残したという。手付かずの方が真っ黒なのは当然として、復元彩色の方は色が鮮やかすぎて重みに欠ける気がした。

 どうやっても不満が出るのだから、素人というのは勝手なものである。

 御影堂は、過去に何度も修理しているが、今回の調査で、文化7(1810)年の修理の際、彩色はすべて塗り替えられていることがわかった。彩色層を見ると、創建時の色を胡粉(ごふん)で白く塗りつぶし、その上に絵を描き直してあったのだ。

 「はく落も、上層のみはげ落ちたもの、下層からゴソッと落ちたものとさまざまでしたが、すべて文化年間の彩色に統一しました」

 顔料もなるべく文化年間に使われたものを選んだが、建造物に使われる絵の具は、岩絵の具中心の日本画と比べ多彩だという。有機顔料の藍、ヒ素、石灰、草の汁。

 「岩絵の具は高価ですから、壁や柱にそうは使えません。面白いのは、創建時の寛永年間とも違うこと。寛永年間の彩色には群青(ぐんじょう)が極端に少ないんです。このころ、日光東照宮が造られていますから、群青はみなあっちに持っていかれてしまったのではないでしょうか」

 仲の推理である。

 「私たちの修理だって、100年後、200年後に何と言われるか。そう思うと、謙虚に現状の形で保存しておくことが大切ではないでしょうか」

(次回は29日。文中敬称略)【池谷洋二】
 



内陣
 社寺で神体や本尊を安置している場所。仏教では本来、参拝者は堂の外からお参りした。時代が下って、参拝者も堂内に入れるようになると、仏の場所を内陣、参拝者の場所を外陣と分け、その境を結界として段差をつけたり、扉を設けるようになった。宗派によって差はあるが、内陣の中は極楽世界を表すものとして絢爛(けんらん)に装飾されていることが多い。



毎日新聞 平成19年3月15日掲載
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毎日新聞連載 「心と技と」 

  毎日新聞連載 「心と技と」 
建造物装飾 川面美術研究所−11
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見えぬ色 解き明かす



 川面美術研究所(右京区鳴滝本町)が、障壁画模写とともに、いや、ひょっとするとそれ以上に光彩を放っているのが建造物彩色だろう。文化財建築の彩色部分の塗り替え、塗り直しという世界は、研究所の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)によって道が開かれた、といっても過言ではないからだ。

 文化財建築の保存修理の際、可能な限り創建当初の姿に戻すというルールが確立するのは1950(昭和25)年の文化財保護法制定以降である。しかし、彩色分野は遅れ、府文化財保護課によると、重要性が見直されるのは昭和40年代に入ってからという。

 そんなことはない。日光東照宮を見てくれ。あそこは大昔から、いつもきれいに整備されている……とおっしゃるかも知れないが、日光は別格。創建以来、幕府が手厚く保護し、常駐する職人集団によって、たえず最高の技術で修理が行われてきたからだ。

 「向こうは、彩色の歴史が綿々と続いている。図面もしっかり残っています。ただ、手法が京都とは全然違うんです。日光はまず、漆で真っ黒に地固めする。そこに胡粉(ごふん)を塗って白に戻してから、色をつけていきます。当然、厚塗りです。父は『京都は薄化粧やからな』と笑ってましたね」

 川面の次女で、研究所代表の荒木かおり(49)の話である。手法が違うため、川面が建造物彩色の選定保存技術保持者だったように、日光社寺文化財保存会も選定保存技術の団体認定を受けている。ここでは、1業種1人(団体)の原則があてはまらないのだ。

 さて、川面が切り開いた京都方式の彩色である。2002年、屋根の修理に伴い彩色復元をした洛北の名刹(めいさつ)・大徳寺の唐門(国宝)を例に、荒木の説明を聞いた。

 大徳寺の唐門は、聚楽第の遺構を移築したもの。荒木によると、何回か移築されているにもかかわらず、彩色部分には一切修理の跡が見られなかったという。従って、動物や花、鳳凰、雲や波など一面に施された彫刻の色は落ち、創建時の姿は想像がつかなかった。

 そこで「設計図」作りである。まず、彫刻を一つずつ図面に描き写す。一方で、彫刻のほこりを払うと、くぼみなどに色が残っていることがある。これをヒントに図面に塗り絵をしていく。まったく色が残っていない時は、風食痕や部材の酸化の具合、さらには化学的調査も加えて顔料を特定、図面を完成させる。

 とはいえ、簡単に特定できるわけではない。

 「コイの彫刻に紫色の断片が残っていたんです。紫というのは普通、混色しないと作れないのですが、それだと何百年も持たないはずです。これは何だ、ということで成分を分析したら、鉄分が出てきました。鉄分を含む顔料なら、岩絵の具ではなく、土系のベンガラ。ベンガラ格子のベンガラです。そこでベンガラ屋さんに聞くと、赤いベンガラも焼くと紫に近い色になるというんです。これがわかった時はうれしかったですね」

 こんな調子である。こうして各パーツの設計図が完成すると、全体の復元予想図をつくり、文化庁のOKを待って、彫刻に色を塗っていく。荒木によると、設計図作りが全体の70%。大徳寺唐門の場合も、3年の作業のうち、設計図に2年半もかかったとか。

 「父の生前は、父が権威でしたが、今は文化庁や府の担当者も勉強してますからね。我々もうかうかしていられません。結構激しく議論しながら、やっているんです」

(毎週木曜日掲載。次回は15日。文中敬称略)【池谷洋二】




大徳寺の唐門
 豊臣秀吉が天正15(1587)年に建造した聚楽第は、後に養子・秀次の居宅となったが、秀次謀反の疑いで断罪した際に破壊した。唐門だけは破壊を免れ、最終的に大徳寺に移築された。全体を覆う華麗な彫刻が特徴で、桃山建築の代表とされる。日が暮れるまで見飽きないことから「日暮門」ともいう。桧皮(ひわだ)ぶきの4脚門。



毎日新聞 平成19年3月8日掲載
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毎日新聞連載 「心と技と」 

  毎日新聞連載 「心と技と」 
建造物装飾 川面美術研究所−10
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時代の空気を再現する



 川面美術研究所(右京区鳴滝本町)が取り組んできた障壁画模写のうち、今回は「復元模写」について紹介したい。

 復元模写とは、老朽化して形をとどめなくなった障壁画を、制作当初に戻って復元すること。色落ちばかりか、はく落して消えてしまった部分も復活させ、今日描かれたばかりの新品に仕上げる手法である。

 復元模写の歴史は新しい。そして、今も需要が多いわけではない。その理由について、研究所代表の荒木かおり(49)は「文化財の障壁画には、もともと極彩色だったものが多いんです。そのまま再現したら、日本人の目には安っぽくみえるのでしょう」と言う。

 わかる気がする。文化財でも骨とうでも、古いということ自体が重要な要素になっていることが少なくない。法隆寺が昨日建ったばかりのようだったら、魅力は半減してしまうだろう。

 復元模写の一典型は、研究所が1998(平成10)年に大分県の依頼で行った、富貴寺(大分県豊後高田市)の大堂壁画模写だろう。富貴寺大堂は平安時代に建てられ、九州最古の木造建築物として国宝、内部の阿弥陀如来坐像と壁画は重文に指定されている。

 ところが、壁画は風化し、絵の輪郭さえ定かでない。文化財として貴重でも、何が描かれているかよくわからない。そこで、県は大堂ごと実物大のレプリカを造って博物館に展示することにした。
 実は、川面美術研究所は71(昭和46)年に、文化庁の依頼で同じ壁画の現状模写をしていた。30年の時をはさんで、現状ありのままの写しと復元の両方を手がけたことになるのだ。写真を見比べると、それぞれの模写の違い、意義がおわかりいただけると思う。

 それでは、復元模写はどうやって進めるのか。

 基本的には、前回紹介した古色復元模写と違いはない。本物をトレースして台紙(壁・板)に線を描き、色を乗せる。ただ、復元模写の場合は、本物がほとんど原形をとどめていないケースが多い。赤外線や斜光ライトといった光学的調査のほか、にかわ焼け(はく落していても、彩色していた部分にはにかわのしみが残る)、風触痕の有無などから、元の線や彩色の跡を調査、再現する。

 そして色だが、研究所の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)は「その時代、地域、政治的背景をよく調べ、人々の美や季節、自然に対する感じ方を汲み取る。時代の色を再現することは、時代の空気を再現することである」と書き残している。

 「例えば、平安時代なら絵画には紺丹緑紫(こんたんりょくし)という約束ごとがあります。紺色の隣には丹(朱)色、緑の隣は紫という具合です。また、菩薩の頭部は群青(ぐんじょう)色なのがほとんどですから、これを手がかりとして、同じ痕跡があれば群青色、隣は赤で、とこう推理していくわけです」

 川面や荒木の話を聞くと、まるでパズルを解いているかのようだ。

 最後に、写真の「阿弥陀浄土変相図」模写絵について、荒木に「再現正確度は、何パーセントぐらいと思うか」と、意地悪な質問をしてみた。

 「図の線、形はかなり自信があります。8割から9割は再現していると思う。ただ、色については平成の絵描きがやったことですから、絶対に平安の色とは言い切れませんね」

(毎週木曜日掲載。次回は8日。文中敬称略)【池谷洋二】




富貴寺
 養老2(718)年開創と伝えられる天台宗寺院。現存する大堂(阿弥陀堂)は、平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂の一つに数えられ、九州を代表する国宝建築物として知られる。大堂内の壁画は、写真の「阿弥陀図」のほか、内陣小壁に「阿弥陀如来並坐像」、外陣小壁に四仏浄土図などが描かれ、いずれも復元された。



毎日新聞 平成19年3月1日掲載
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毎日新聞連載 「心と技と」 

毎日新聞連載 「心と技と」 
建造物装飾 川面美術研究所−9
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どちらが本物なのか

 川面美術研究所(右京区鳴滝本町)が1972(昭和47)年から30年以上にわたって続けている、二条城二の丸御殿の障壁画古色復元模写。研究所の創設者で、一昨年1月に91歳で亡くなった川面稜一らが試行錯誤の末にたどり着いた手法はこうである。
 まず、オリジナルのトレースから。トレコート・フィルムというビニール系の紙を乗せ、墨と水絵の具でオリジナルの線を写す。後世、加筆されているものはこの時点で除き、傷みが激しくて欠落しているところは、学者と検討しながら慎重に復元していく。
 一方で、模写絵を描く台紙を用意、新品から150年経過したという想定なので、泥絵の具を使って薄茶に塗っていく。自然な日焼け、風化した感じを紙そのものにつけておくのだ。次に線描きを終えたトレコート・フィルムを台紙に乗せ、捻紙(ねんし)という和製カーボン紙を間にはさみ、上から鉄筆でなぞると、台紙に線が転写される。
 面倒なのは、ここからだ。狩野派によって描かれた二の丸御殿の障壁画は、金箔(ぱく)を多用しているものが多い。金箔の上には絵の具の顔料が乗りにくく、きれいな色が描けない。例えば、金色の地の上に花が描かれているような場合、あらかじめ花の部分に薄紙を張ってマスキング、金箔を一面に張った後で金箔ごと薄紙をはがして無地を出す工程が必要になる。絵の輪郭に合わせて薄紙を切り抜き、張っていく作業が続く。
 それから金箔張り、薄紙はがし、色塗りと進むわけだが、金箔を張るのも、簡単にはく落しないよう、にかわを3層、4層に塗ったり、さらに金箔そのものにも古色をつけるために泥絵の具を10回も塗り重ねて汚したりと、素人の想像を絶する手間がかかるのである。
 板戸の場合も同じ。台板に希塩酸を塗ってバーナーで焼き、古色を出してから、焼いて酸化を進めた顔料の岩絵の具を塗っていく。
 「最初は、どうしても古びた板にならないんで、銘木店へ行って勉強したり……。板に古色をつけるだけで1カ月もかかったことがありました」
 73年から、ここで模写を担当している研究所の主任画家、谷井俊英(57)の思い出である。
 谷井の案内で、二の丸御殿に向かった。6棟あるうちの黒書院、大広間、そして白書院の一部は、天井画などを除けば既に模写絵に入れ替えられている。制作後400年を経過した本物と150年を想定して描かれた模写絵。実際に現場で見たら、どんな感じがするか、確かめたかった。
 意外だった。模写室で見た時は、150年たったものにしては新しいように思えたのだが、現場では柱や長押(なげし)など昔のままの部材や天井画に溶け込み、落ち着いていた。そして、本物が展示されている部屋から目を移しても、どちらが本物どころか、どちらが古く見えるかすらも判然としなかったのである。
 もう夕方で、薄暗かったこと。加えて、各部屋の絵は廊下の仕切りの外からしか拝観できないため、模写室で間近に見るのとは違いもあるだろうが、「わからない」を連発する私に、谷井はニコニコするばかりだった。
 二の丸御殿では、模写絵は模写絵とはっきり掲示してある。「すべて模写絵に替わるには、あと20年はかかる」(谷井の話)ので、チャンスがあったら、ぜひ見比べていただきたい。私も、午前の光の中でもう一度見ようと思う。
(毎週木曜日掲載。次回は3月1日。文中敬称略)【池谷洋二】
 
岩絵の具
 日本画の代表的な顔料。従来は天然の岩からとったが、産出量も少なく、最近は人造岩絵の具も多く出ている。群青(ぐんじょう)は藍銅鉱、緑青(ろくしょう)は孔雀石、珊瑚末(さんごまつ)は赤珊瑚が原材料で、絵の具として使うには、接着剤としてにかわが必要。時代を経ると酸化して黒っぽくなるため、あらかじめ焼いて酸化を進めてやると、古色のついた絵が描ける。
毎日新聞 平成19年2月22日掲載
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2007年02月15日

毎日新聞連載 「心と技と」 

  毎日新聞連載 「心と技と」 
建造物装飾 川面美術研究所−8
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文化財保護原点に

 春、秋の観光シーズンとはうって変わり、この時期の二条城(中京区二条城町)は、京の底冷えに沈み込んだように、静かで穏やかな素顔を見せてくれる。
 東大手門から入場して左へ行けば唐門(からもん)。二の丸御殿の入り口である。逆に右に道をとれば、無料の休憩所、さらに奥に宝物を納めた近代的な収蔵館がある。その手前にある収蔵庫(旧)の一室に、1972(昭和47)年から30年以上にわたり二の丸御殿の障壁画1035面の模写作業を進める川面美術研究所(右京区鳴滝本町)の模写室が設けられている。
 訪れた時、室内では研究所の主任画家、谷井俊英(57)と女性スタッフが作業中だった。横長の部屋に進行途中の模写絵が並び、見本用の襖(ふすま)絵の本物も1枚立てかけてある。振り向くと、後ろの壁に白い紙を張り合わせて作った巨大な「狩野派の系図」があった。
 「狩野派といっても、人によって画風が違います。その違いがわからないと模写なんてできないんで、頭にたたきこんでおかないと……」と、谷井は言う。
 二の丸御殿の障壁画は、狩野探幽を中心にした江戸初期の狩野派絵師集団の作である。谷井によると、模写対象の1035面に天井画などを加えた3000面以上の絵を、当時わずか1年ほどで仕上げている、という。
 「もちろん、系図に出てくる師匠格の人だけでなく、大勢の絵師を使ってやったことでしょう。だから、棟によって、また部屋によっても作風が違うわけです」
 30年も模写をしていると、古文書を見なくても、絵だけで誰の作品かわかるそうだ。
 さらに、取って置きの面白い話を聞かせてもらった。将軍の居間兼寝室だった白書院。観光客に親しみやすいように、将軍の人形が展示されているが、人形の背面の床の間に狩野興以、または狩野長信の作とされる壁一面の山水画がある。その絵の左下隅に、小舟をこぐ人が小さく描かれている。
 「小舟の絵は、明らかにほかとタッチが違います。紙を上張りした跡もあるんです。後世、誰かが加筆したわけですが、狩野派の絵師にしては稚拙なので、大正天皇の落書きでは? なんて冗談を言い合っているんですよ」
 二条城は1884(明治17)年、宮内庁所管の二条離宮となり、1915(大正4)年には、大正天皇即位の大典もここで行われている。当然、大正天皇も白書院に滞在していることから、こんな“珍説”が生まれたようだ。
 「私たちの模写では、この舟は描きません。せっかく再現するのですから、後世に付け加えられたものは除き、本来のものに帰してやる。文化財保護の原点からスタートしているわけです。そこが機械と違うところですね。デジタル複写など、どんなに技術が進んでも、機械にはできない人間ならではの技だと思います」
 昨年末までに完成した模写は600面を超えた。遠侍(とおざむらい)、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟からなる二の丸御殿のうち、黒書院と大広間はすでに模写絵に入れ替えられ、本物は収蔵館に納められた。式台も絵はすべて出来上がって入れ替え待ち、白書院は部分的に入れ替えが始まっている。
 古色復元模写とは、どのように行われるのか。次回はいよいよ、その手法をご紹介したい。
(毎週木曜日掲載。次回は22日。文中敬称略)【池谷洋二】
狩野派
 室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、画壇に君臨した画家集団。室町幕府の御用絵師を務めた狩野正信を始祖とし、伝統的な水墨画に華麗な色彩を取り入れた独特な様式を創造した。代表的な絵師としては、正信の子の元信、元信の孫の永徳、永徳の孫の探幽などがいる。
 
毎日新聞 平成19年2月15日掲載
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毎日新聞連載 「心と技と」 

  毎日新聞連載 「心と技と」 
建造物装飾 川面美術研究所−7

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150年分「古さ」プラス

 元離宮二条城(中京区二条城町)。京都を代表する観光名所であり、全体が国の史跡、二の丸御殿は国宝、二の丸御殿庭園は特別名勝、さらには「古都京都の文化財」の一つとして、ユネスコの世界遺産にも登録されている。文化財の固まりのようなこの場所で、30年以上にわたって障壁画の模写作業が続けられ、私たちが拝観しているのが順次、模写絵に入れ替わっているのをご存知だろうか。
 川面美術研究所(右京区鳴滝本町)が京都市から委託され、二の丸御殿の障壁画模写をスタートさせたのは1972(昭和47)年。研究所の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)が模写画家としても、建造物彩色の分野でも円熟期を迎えたころだった。
 遠侍(とおざむらい)、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟からなる二の丸御殿には、3000面を超える障壁画が現存。うち954面が重要文化財に指定されている。模写は、老朽化が進む障壁画を収蔵館で厳重管理する代わりに、観光客には気軽に模写絵を見てもらおうというのが狙い。文化財絵画を中心に、1035面が対象になっている。
 歴史上、二条城と呼ばれるものは大きく分けて四つある。現二条城は徳川家康が上洛時の宿所として築城したものを、三大将軍・家光が寛永3(1626)年に大改築したのがベースとされる。二の丸御殿の障壁画もこの時期とされ、どの部屋の襖(ふすま)や板戸、天井にも、狩野探幽を中心にした狩野派の絵師集団によって描かれた江戸初期の華麗な障壁画が残されている。
 「柱や長押(なげし)などの部材や飾り金具はそのまま、絵だけを新調するわけです。ピカピカの新品絵にしたら、浮いてしまいます。かといって、1000面以上もありますからね。しみ一つまで忠実に模写していたら、時間がかかり過ぎて永遠に終わりません。そこで、周囲の雰囲気をこわさないように、新品に一定の古色をつけた『古色復元模写』の手法が導入されたんです」
 模写事業が始まった翌73年から、二条城内にある模写室に詰めているという川面美術研究所の主任画家、谷井俊英(57)が説明してくれた。谷井は現在、京都造形芸術大学や京都精華大学で非常勤講師として模写を教える教員でもある。
 前回書いたように、古色復元模写とは、この二の丸御殿の障壁画模写で初めて使われた技法。模写の監修をしていた故・土居次義京都工芸繊維大学名誉教授の命名であり、川面オリジナルだ。顔料を焼くことによって酸化を促進させ、年月を経た状態と同じ状態にして使用している。
 でも、古色といっても、新品から何年くらいたったものを想定しているのだろうか。作業中の作品を見せてもらったが、素人目にはほぼ新品同様に思えたのである。
 谷井によると、「これも試行錯誤の繰り返しでしたが、今は150年ぐらいを意識している」とか。「へえー、これで150年?」と首をかしげる私に、谷井は「古びた色はついていても、台紙そのものは新しいわけですから、間近で見れば新しく感じるかも知れません。でも、あと250年すれば、現時点で400年たっている本物の今の状態と、ほぼそっくりになっているはずです」と笑った。
 二条城で展示されている本物と模写絵を、この目で確かめるのが楽しみになった。
(毎週木曜日掲載。次回は15日。文中敬称略)【池谷洋二】
四つの二条城
 歴史上、二条城と呼ばれるのは、室町幕府十三代将軍、足利義輝の居城▽織田信長が建てた同十五代将軍・義昭の居城▽信長が京滞在中の宿所として設け、後に皇室に献上した二条新御所▽家康が京滞在中の宿所として建設した城−−の四つ。前三つは現存せず、今の二条城と場所も違うが、義昭の居城と二条新御所は同一のものとする説もある。
 
毎日新聞 平成19年2月8日掲載
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毎日新聞連載 「心と技と」 

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建造物装飾 川面美術研究所−6

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「現状」こそ模写の原点

 昨年、前のシリーズで宮大工とともに京の寺を訪ね歩いていた際、ある名刹(めいさつ)で、文化財指定を受けている襖(ふすま)絵をデジタル複写するため、打ち合わせに来ていた一行と鉢合わせしたことがある。スーツをびしっと決め、いかにもパソコン世代といった若い男女。歯切れのいい説明のさまも、歴史の重さでどっしりと沈んだ現場の雰囲気の中では、何やら不似合いな感じがしたのを思い出す。
 写真や印刷技術の進歩のおかげで、現物と見分けがつかないほど精巧な複製を作ることが可能になった。しかも、手作業で写すのと比べてはるかに短期、安価でできるのである。
 「現状模写というのは、オリジナルの姿そっくりに模写することです。今はデジタル写真技術があるわけですから、依頼者サイドに立つなら、人の手による模写ではなく、デジタルでやればいいと思いますよ」
 川面美術研究所(右京区鳴滝本町)の所長、荒木かおり(48)はさらりと言う。
 前にも触れたが、文化財保護・保存のための模写には3通りの方法がある。今ある姿をそのまま写す「現状模写」、創作された新品状態に戻す「復元模写」、さらに、新品に適度な古色を加えた「古色復元模写」である。
 例えば、オリジナルは宝物庫などで管理し、拝観者には複製品を見せて、気軽に文化財に親しんでもらう。こんな場合は、現状模写か古色復元模写を選ぶことが多いだろう。オリジナルを展示していた昨日と今日で、まるっきりモノが違ってはおかしいからだ。また、奈良・高松塚古墳の壁画のように、発見された時の状態そのものが考古学的に大きな意味を持つケースには、現状模写が欠かせない。
 いわば、現状模写は絵画模写の原点である。川面美術研究所の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)が、法隆寺金堂壁画を皮切りに、平等院鳳凰堂の中堂扉絵、醍醐寺五重塔の初重(1層)壁画など高名な寺院の模写を手がけていたころ、模写といえばこの現状模写のことだった。
 その手法を、改めて荒木から聞いた。
 襖絵でも板絵でも、まずオリジナルを床に寝かせる。次に薄い美濃紙をオリジナルにかぶせて上部で固定、オリジナルが大きい場合、乗板という作業台をまたがせる。画家はその上に乗り、左手に巻き上げた美濃紙のロール部分、右手に絵筆を持つ。美濃紙から透けてオリジナルの輪郭が見えるが、細かい部分まではわからない。
 そこで、左手を上下させてオリジナルと美濃紙を交互に視野に入れ、目の残像現象を利用して美濃紙の上に色を置いていく。薄い色を何度も何度も塗り重ねて、オリジナルと寸分たがわぬものに仕上げる。
 結果、オリジナルが板や壁に描かれていたら、絵だけでなく板目や壁も描きこまれる。その場合、紙なのに板絵や壁絵のように見えることになる。手間がかかり、1日に仕上がるのは、わずか10センチ四方ほどという。
 「確かに、一般の方から見れば大変な手間。絵描きの技量にも左右されますし……。デジタル写真でいいというのはそういう意味です。でも、現状模写をクリアして初めて、復元模写や古色復元模写ができるようになる。原点というだけでなく、我々にとっては基本中の基本なのです」
(毎週木曜日掲載。次回は8日。文中敬称略)【池谷洋二】
古色復元模写
 川面美術研究所が1972(昭和47)年から続けている二条城二の丸御殿の障壁画模写で、初めて使われた手法。例えば、緑青(ろくしょう)という顔料は年月がたつと酸化により黒ずんで見えるが、あらかじめ焼いて酸化させた緑青を使えば、想定する年代の作品ができる。狩野派研究の第一人者で、模写の監修をしていた故・土居次義京都工芸繊維大学名誉教授が名付けた。
 
毎日新聞 平成19年2月1日掲載
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建造物装飾 川面美術研究所−5

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職人 同時に芸術家

 昭和40年代に入ると、文化財建造物の彩色修理にも、一定のルールが定まった。一言で言えば、可能な限り創建当初の姿に戻すということである。その時々の事情で、塗り替えられているものは、出来る限り元に戻す。これ以上はく落したら、色を失う恐れがあるものは、補色するか、上塗りする。部分的に部材を新調せざるを得ないものは、全体の調和を考えながら新材に色をつける。
 川面美術研究所(右京区鳴滝本町)の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)が1968(昭和43)年、六波羅密寺本堂(重文)の向拝(こうはい)の彩色復元を依頼されたころは、まさにそのルールが確立されつつあった時期。理屈はできても、技術についての教科書はなかった。
 川面の二女で研究所の後継者、荒木かおり(48)によると、画家にとってキャンバスが紙と木、それも老朽化した立体構造物が相手では、技術的にまったく異なるものになるという。
 「色を定着させるためには、顔料ににかわを加えるわけですが、和紙と木では配合が違う。また、同じ種類の木でも水分をどれほど含んでいるかによって違います。1本の柱でも雨ざらしになっている部分とそうでないころは、同じではないんです。普通の絵だと思ったら、まったく歯が立ちません」
 含水機といって、肌年齢を調べるそれのように、木に押し当てて水分を測る機械を買ってきたり、懐中電灯(後にコールドライトを使うようになる)を横から当てて木の表面の状態や上塗りしてあるか調べたり……まさに、試行錯誤だったようだ。
 六波羅密寺に続いて翌69年に手がけた、石清水八幡宮の本殿(重文)などの彫刻彩色。それから30数年たって色落ちが進み、昨年10月から、再び川面美術研究所が同じ彩色を担当している。新たな道を切り開いていたころの父の仕事を、自分の目でたどることになった荒木は言う。
 「非常に絵画的な表現をしているんですね。彫刻だから、べたべた塗っても立体は立体なのに、いつも平面で仕事をしている絵描きの本能というか、デリケートな色の強弱をつけてある。また、彫刻のトラが、ただのトラじゃない。ちゃんと狩野派のトラになっているんです。筆先を追っていると、胸にくるものがあります」
 以来、川面は二条城唐門(重文)の復元彩色、北野天満宮本殿(国宝)の復元彩色……と「数え切れないほど」(荒木の話)の建造物彩色を手がけ、97年に国の選定保存技術者に認定されている。
 一方、原点である壁画模写も並行して続け、72年からスタートしたもう一つのライフワーク、二条城二の丸御殿の1000点を超える障壁画模写は、川面が亡くなった今も工房の重要な仕事になっているのだ。
 川面稜一の足跡を駆け足で追ってみて、建造物装飾という仕事は、芸術家の範ちゅうなのか職人のそれか、素朴な疑問が残った。工房スタッフの1人、出口瑞(48)が話してくれた次の言葉が、ひょっとすると、謎の扉を開く鍵になるかも知れない。
 「先生(川面稜一)は、私たちを指導してくださる時、ある時は『我々は職人やさかいな』とおっしゃるし、またある時は『職人やないさかいな』とおっしゃるんです。矛盾というか、相反する面をいつもお持ちでした」
 次回からは、扉を開けて、建造物装飾の心と技に迫ってみたい。
(毎週木曜日掲載。次回は2月1日。文中敬称略)【池谷洋二】
コールドライト
 光源とレンズの先が離れているため、熱を持たないライト。本来は顕微鏡写真撮影や医療機器用だが、川面稜一は風化した彩色表面の図柄識別に使った。光源から光ファイバーで光を送ると、均一に照らされ、顔料の痕跡部分に横から当てれば、風食差でできたわずかな段差が浮き上がる。状態によっては、2度塗り、3度塗りをしてあっても、元の図柄が分かることもあるという。
 

毎日新聞 平成19年1月25日掲載
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建造物装飾 川面美術研究所−4


 


29.jpg文化財に絵描きの心を

 川面美術研究所(右京区鳴滝本町)の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)が、建造物彩色の第一人者として国の選定保存技術者に認定されたのは1997(平成9)年である。建造物彩色とは、文化財建造物の柱や壁、天井、彫刻などに施された彩色を修理・復元する技術であり、川面が文化財にかかわるスタートになった壁画模写は含まれていない。
 川面と建造物彩色との出合い−−。川面の二女で研究所代表の荒木かおり(48)によると、56(昭和31)年ごろ、平等院鳳凰堂の扉絵模写を手がけた際、府文化財保護課の技師、大森健二に、併せて翼廊(国宝)の柱の朱塗りを依頼されたのがきっかけという。
 10円玉を見たらわかるように、鳳凰堂は中央の中堂から翼が生えたように左右に廊下が延びている。これが翼廊である。風雨にさらされるため、ほかと比べ色落ちが激しかった。
 本来、こうした朱塗りは専門の職人が行う。しかし、全体の塗り替えならまだしも、翼廊だけピカピカになったらおかしい。「画家の川面にやらせたら、周囲とのバランスを考えて古色っぽくできるんじゃないか」。大森は、そう考えたようだ。
 「恐らく、これが文化財建造物の彩色に絵描きの心が持ち込まれた最初ではなかったでしょうか」
 荒木は言う。
 従来、社寺の修理では、宮大工や建具大工、屋根職人、壁職人らに加えて、装飾部門を受け持つ飾り金具職人や金箔(ぱく)師、漆師らも参加。彩色には彩色職人がいた。いずれも職人であり、画業を生業にする者の領分ではなかった。
 結果、社寺によっては、修理の際の都合で塗り変えられ、創建当初の色や模様とはかけ離れてしまうことが珍しくなかった。細かい模様の上に漆をべた塗りして図柄を消したり、さらに後年、その上に新たに模様を描いたり……。
 画家に繊細な塗り替えを頼んできたとはいえ、彩色のルールはまだ固まっていなかった。朱塗りを終えて、壁画の模写の世界に戻った川面が、建物彩色の仕事に再び駆り出されることはなく、府教育委員会に頼まれるのは、調査の範囲にとどまった。彩色部分について顔料は何か、何度塗り直されているか、元の図柄はどうであったか、などのデータをとるための出番だったのである。
 府教委によれば、建造物彩色の重要性が言われるようになるのは昭和40年代に入ってから。さすがに文化財建造物では乱暴な塗り替えなどはなくなっていったが、調査して記録はするものの、色落ちしている部分にはく落止めをするかどうか、ぐらいが彩色修理の範囲だったという。
 そして、68(昭和43)年。解体修理していた東山区・六波羅密寺本堂(重文)の向拝(こうはい)の彩色を復元するよう、川面は依頼される。これが建造物彩色の本格的な第一歩だった。
 続いて翌69年には、八幡市の石清水八幡宮の本殿(重文)などの唐破風(からはふ)彫刻の復元彩色。さらには74年、二条城唐門(重文)の復元彩色。
 「試行錯誤の連続だったみたいです。だって、復元彩色なんて、それまで誰もやったことがないんですから……。でも、父はいろいろと工夫したりすることが好きでしたから、苦労も楽しかったようですね」と、荒木は笑った。
(毎週木曜日掲載。次回は25日。文中敬称略)【池谷洋二】
選定保存技術
 1975年の文化財保護法改正に伴って新設された制度。文化財保護のために欠かせない技術、技能で、保存措置を講じる必要があるものを、文部科学大臣が選定保存技術とし、その保持者及び団体を認定している。「文化財保護関係の人間国宝」と呼ばれることも。選定数は04年10月現在で、建造物木工(宮大工)、木像彫刻修理、邦楽器糸製作など62件。



毎日新聞 平成19年1月18日掲載

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2007年01月25日

毎日新聞連載 「心と技と」  建造物装飾 川面美術研究所−3

毎日新聞連載 「心と技と」 
建造物装飾 川面美術研究所−3

28.jpg1日の模写は10a四方


 川面美術研究所の創設者で、建造物彩色の選定保存技術保持者だった川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)がこの道に入るきっかけとなった奈良・法隆寺金堂壁画模写の話を続けたい。

 名だたる画伯たちに交じって「壁のしみばかり写していた」という川面だが、二女で現在の研究所長、荒木かおり(48)によると、こんな方法だったらしい。

 入江波光の下で京都班に入った川面は、壁画をコロタイプ印刷したものを下敷きに、模写をした。写すのに使ったのは薄い美濃紙。ロールに巻きついた状態での美濃紙を少し広げて下敷きの上に乗せ、右手に絵筆、左手でロール部分を持つ。

 薄い紙越しに、下敷きに印刷された絵が透けて見えるが、輪郭ならともかく、細かい線やしみまではわからない。そこで、左手で紙を上げ下ろし、それを繰り返すことで目の残像を利用して、下とそっくりに描いていったという。1日に仕上がるのは、10a四方程度。聞いただけで、うんざりする作業だ。

 模写には、大きく分けて3通りの方法がある。制作当初に帰って色・形を再現する「復元模写」、現在の姿をそのまま写す「現状模写」、そして、出来たてのピカピカでなく、一定の時代色をつけた「古色復元模写」である。法隆寺壁画で選択されたのは、現状模写。だから、しみの一つ、汚れの一つまで忠実に写し取る必要があった。

 「法隆寺よりずっと後のことですが、薄暗いところで、ひたすらうつむいて作業していた父を覚えています。何時間たっても、全然進んでいない。小学生のころ、“働くお父さん”を描くという授業があったのですが、絵にならなくて……」

 荒木の子供のころの記憶である。

 こうして始まった我が国で初めての本格的な文化財模写事業は、突然、悲劇的な幕を下ろす。1949(昭和24)年1月26日早朝に起きた法隆寺金堂の火災、そして壁画の焼失である。これを機に翌年、文化財保護法が成立、1月26日は後に「文化財保護デー」になる。あまりにも有名な火災事件だが、出火原因は、模写にあたっていた画家たちが、保温用に使っていた電気ざぶとんのスイッチの切り忘れとされた。

 京都に戻った川面は、義父、野村芳光の舞台美術の仕事を手伝うかたわら、当時の文部省に文化財の模写を志願。解体修理が進んでいた宇治・平等院鳳凰堂の中堂壁画模写を皮切りに、醍醐寺五重塔の初重(1層)壁画、奈良・室生寺金堂壁画、海住山寺五重塔内陣扉絵と、高名な寺院で次々と模写を手がけていく。

 その心境について、川面は後年、毎日新聞の取材に対し、「私たち模写班の不始末で法隆寺金堂を燃やしてしまい、償いの気持ちもあって始めたのですが、自分の使命なような気がしてきて……。その時代の精神を伝える相手にいつもほれ込んでしまうんです」と語っている。

 模写の仕事では、吉田友一、松元道夫、多田敬一、河津光俊ら法隆寺の仲間と一緒に参加した。法隆寺で超一流の画家の仕事を見、教えてもらったこと、文化財保護に情熱を持つ文部省の技官と知り合えたこと、そして、ともに技を競った仲間たち。

 こうした経験や交流が、川面と文化財とのかかわりを深くさせ、もう一つのライフワークとなった建造物彩色の仕事にもつながっていった。


(毎週木曜日掲載。次回は18日。文中敬称略)【池谷洋二】


法隆寺壁画消失
 焼け残ったのは、全部で12面の壁画のうち、既に解体を終えて保管されていた内陣の「飛天」図など一部。完成間近だった川面たちの模写図」8面と、全景の写真原版は残った。現在の法隆寺金堂に展示されている模写は、1967(昭和42)年、前田青邨、平山郁夫らが参加した新しい模写の分。区別するため、川面らの模写を「昭和模写(旧壁画模写」)」、後者を「再現模写(再編壁画)」と呼ぶことがある。
毎日新聞 平成19年1月11日掲載

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毎日新聞連載 「心と技と」  建造物装飾 川面美術研究所−2

毎日新聞連載 「心と技と」 
建造物装飾 川面美術研究所−2
 
27.jpg歩く「文化財保存」


 右京区鳴滝本町の川面美術研究所・福王子アトリエの3階に1枚の写真パネルが飾ってある。研究所の創設者、川面稜一を囲んで若いスタッフたちが笑顔で写っているのだが、撮影されたのは、昨年の正月。川面が1月9日に91歳で亡くなる、わずか数日前だったという。

 「父は本当に穏やかな人で、大きな声を出すのを見たことがありません。亡くなった時も、前の日まで元気だったのに、ポックリという感じで、父らしい最期だったと思います」

 川面の二女で、現在の研究所を率いる荒木かおり(48)の話である。

 川面稜一。画家にして建造物彩色の選定保存技術保持者。川面の歩んできた道を振り返ることが、そのまま文化財保存のための模写絵画や建造物彩色の歴史をたどることになる。

 川面稜一は、1914(大正3)年、大阪市で生まれた。小学生の時に母が再婚、その相手が京都で「都をどり」の舞台美術を担当していた画家、野村芳光だった。

 生前、川面はこの義父のことを「浮世絵画家の末裔」と紹介しているが、木版画家として名をなしただけでなく、フランス人画家、ジョルジュ・ビゴーに洋画を学び、舞台美術に従来の書き割りとは違った洋風の味付けを持ち込んだ人である。

 義父の影響で京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に入学した川面は、ここで恩師、入江波光と出会ったことが、その後の一生を決めることになった。

 40(昭和15)年、学校を卒業してから絵の勉強のかたわら、義父の仕事を手伝っていた川面に、入江から声がかかる。

 「法隆寺の壁画の模写をすることになったんだが、一緒に来ないか」

 奈良・法隆寺では当時、「昭和の大修理」と呼ばれる解体修理が行われており、併せて、仏教絵画屈指の名作とされながら傷みが進んでいた金堂壁画を模写、複製することになった。その事業に入江が参加することになり、助手の1人として川面が呼ばれたのだった。

 絵画の模写・模造は、洋の東西を問わず、昔から盛んに行われている。贋作づくりという意味ではなく、画家を目指す者にとって、先人の筆致を写すことは自分の線を創造する上で欠かせない勉強であり、修業なのだ。

 ところが、法隆寺の壁画模写は意味が違った。画家の勉強ではなく、文化財保護の観点で行われた最初の本格的な模写だったのである。

 入江の下で壁画の模写を始めた川面は、応招のためいったん現場を離れるが、47年に復員すると再び法隆寺へ。この時の様子を、後年、日本建築学会文化賞を受賞した際に記した自身の文章を抜粋して紹介しよう。

 「東京班、京都班に分かれ、東京班では安田靫彦先生を筆頭とするグループ、京都班は入江波光先生のグループでした。京都班は便利堂のコロタイプ印刷を下敷きに薄彩色で、東京班は白土の土壁の質感を出すために、印刷の上に胡粉(貝殻で作られる白色の粉)を引いて比較的厚彩色で仕上げました。私は入江班の中でも最年少でしたので、ひたすら壁のしみを写しておりました」

 余談だが、複写のための照明には、明るくて熱を持たない新照明として、潜水艦用に開発された東芝製蛍光灯が採用された。模写が始まった40年8月27日、20hの昼光色ランプ136灯が法隆寺に持ち込まれている。

 これが日本で蛍光灯が実用に使われた最初である。

(次回は07年1月11日。文中敬称略)【池谷洋二】

 

コロタイプ印刷

 約150年前、フランスで原理が発明され、ドイツ人、ヨーゼフ・アルベルトが実用化した印刷法。リトグラフなどの石版印刷と同様な平版による印刷だが、原版に感光性ゼラチンを塗ったガラス板を使うのが特徴。オフセット印刷のように拡大すると粒々に見える網点のない連続階調のため、滑らかで深みのある質感が表現できる。

毎日新聞 平成18年12月21日掲載

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2007年01月12日

毎日新聞連載 「心と技と」  建造物装飾 川面美術研究所−1

毎日新聞連載 「心と技と」 
建造物装飾 川面美術研究所−1

26.jpg 障壁画から神馬まで

 先週までの連載で、宮大工棟梁、細川豊一(75)と京の寺院を訪ねる旅を重ねるうち、気になりながらその場を通り過ぎることがしばしばあった。妙心寺塔頭、退蔵院本堂(重文)の復元杉戸絵、新築された寂光院本堂の内陣に描かれた極彩色、大徳寺唐門(国宝)の復元彩色……。あるものは、古の香りそのままに、またあるものは、新たな命の光彩を放っていた。宮大工の仕事に続き、今週からはこうした建造物装飾の世界を歩いてみたい。【池谷洋二】

 京都市右京区鳴滝本町。無人の京福電鉄・高雄口駅で降りて、ゆるやかな勾配の周山街道を北へ。名残の紅葉を求める人か、片道1車線の狭い道をひっきりなしに車が行きかう。約5分ほど歩いた街道沿いに、川面美術研究所の福王子アトリエがあった。

 川面美術研究所は、昨年1月に91歳で亡くなった、建造物彩色の第一人者で国の選定保存技術者だった川面稜一が設立した工房である。現在は川面の二女で、京都教育大学非常勤講師の荒木かおり(48)を中心に、18人のスタッフが川面の遺志を継ぎ、二条城二の丸御殿の障壁画復元模写や文化財修復・復元に取り組んでいる。

  「工房の仕事を一言で表現するのはむずかしくて……。最近では、建造物装飾と紹介しているのですけど」

 そう、荒木が言うように、「建造物装飾」というのは宮大工や瓦職人のような一般的な名称ではない。川面が選定された保存技術は、冒頭に書いた大徳寺唐門のような、文化財建造物に彩色する分野に限定されたものだし、障壁画や襖絵を模写する専門家は模写画家、模写絵師などと呼ばれる。

 川面美術研究所はこれに加え、新築社寺のデザインから舞台美術まで手がけ、建物とそれに付随する彩色装飾全般がテリトリー。既成の名前では収まりきれないのだ。

 しかし、だからといって、社寺といえば思い浮かぶ朱色の柱や壁。あれは、工房の仕事ではないというからややこしい。大ざっぱに言えば、塗装ではなく絵、素人目にも「これは、画家が手がけたんだろうな」と思うような領域。荒木の話を聞いて、とりあえずそんなイメージを持った。

 工房2階のアトリエをのぞいてみる。床一面に並べられた制作途中の襖絵。これは、築城400年の07年完成を目指して復元工事が進む熊本城本丸御殿に入る襖絵という。加藤清正が築城した熊本城は、1877(明治10)年の西南の役で炎上、一部を残して燃え落ちた。その後、天守閣などが復元されたが、来年には本丸御殿をはじめ往事の威容がよみがえるのだとか。

 ただし、燃え落ちた本丸御殿の資料は乏しく、燃える前の襖絵は、例えばこの面に「鶴」、こちらには「馬」が描かれていた、ぐらいしかわからない。もちろん、写真などもない。そこで、「狩野派なら恐らく、こんな感じ」と、学者と意見交換しながら描いているという。それなら、復元というより、創作復元?

 さらに、1階に下りると、大きな白馬の木像がいたのでビックリ。正月を控えて、伏見稲荷の神馬がお色直しにやってきているのだとか。これも、工房の仕事なのか。

 荒木が表現しにくいと言ったはずである。川面美術研究所の仕事は多岐に渡り、私も全体をつかみきれず、うろうろするばかりだった。

(毎週木曜日掲載。次回は21日。文中敬称略)

 

建造物装飾がわかる

 現在、中京区三条高倉の京都文化博物館2階歴史展示室で常設展示中の「匠の世界」に、川面美術研究所のコーナーがある。建造物彩色を中心に、工房の仕事をパネルやレプリカなどを使って紹介しており、建造物装飾の入門編といったところ。常設展入場料は、一般500円、大高生400円、中小生300円。川面美術研究所のコーナー展示は来年1月中旬まで。月曜休館。京都文化博物館(075・222・0888)

毎日新聞 平成18年12月14日掲載

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2006年12月23日

毎日新聞連載 「心と技と」

毎日新聞京都版「心と技と」にて、川面美術研究所の建造物装飾に関する仕事についての記事が連載されております。

平成18年12月14日から、毎週木曜日掲載です。

是非御覧下さい。
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2005年11月30日

【重要文化財】二条城二の丸御殿障壁画 模写事業


TV番組放映のお知らせ


川面美術研究所が昭和四十七年より取り組んでおります[重要文化財]二条城二の丸御殿障壁画模写事業を取り上げたTV番組が放映されます。



放送 : 平成十七年(2005年) 十二月二十五日(日曜日)
      YTV NTV 7時30分〜

番組 : 「遠くへ行きたい(第1784回)  京都 千年王朝の技の源」 (仮題) 

制作 : 田園工房、よみうりテレビ



京都・太秦(うずまさ)を本拠地とした古代の豪族、秦(はた)氏の歴史に触れながら、京都のものづくりの技、遊び、味を、俳優・画家の米倉斉加年氏が訪ねます。

是非御覧下さい。

なお番組は変更になる場合もございますので、詳細は当日の番組表などで御確認下さい。





*** 本放送は終了いたしました ***



 

 

 

 


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2005年07月07日

【国宝】 平等院鳳凰堂 壁画復元

TV番組再放送の御案内




 当研究所の携わった[国宝] 平等院鳳凰堂(京都府宇治市)の彩色・壁画復元を特集した番組が放映されます。


 7月23日(土曜日) 25:10〜26:40
 NHK総合 「浄土が地上に現れた 〜復元 宇治平等院〜」


 是非御覧ください。

 なお、番組は変更になる場合もございますので、詳細は当日の番組表などで御確認下さい。




*** 本放送は終了いたしました ***

 

 

 

 

 

 


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2004年10月18日

熊本城本丸御殿大広間 障壁画復原

TV番組放映の御案内 

 
 
 平成十九年(2007)に築城四百年を迎える熊本城では、平成十年より復元整備が進められております。

その中でも目玉として位置づけられている本丸御殿大広間の復元工事において、川面美術研究所は障壁画復原制作に取り組んでおります。


『御天守密書』『熊本城追憶拾遺記』等の古文書、本丸御殿のものと伝えられる『団扇形楼閣山水図』等の絵図を根拠資料とし、美術史・建築史の専門家の指導を仰ぎながら、同時期の類例を参考にして復原図を検討しております。


この熊本城本丸御殿復元の現時点での成果が、

平成十六年十一月七日(日曜日) 10:00〜19:00放送 
NHK BS2 『おーい、ニッポン 私の・好きな・熊本県』 

にて、CGでよみがえります。

是非御覧下さい。


なおCG復原に関しては14:00頃に放映される予定ですが、変更になることもありますので、詳細は当日の番組表等で御確認下さい。



*** 本放送は終了いたしました ***

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2004年05月18日

【重要文化財】 御香宮本殿 彩色復原


TV番組放映の御案内



平成十六年五月十九日放送、日本テレビ『午後は〇〇 おもいッきりテレビ』(12:00〜13:55)の「きょうは何の日」のコーナーで、当研究所が携わった平成六年(1994)の[重要文化財] 御香宮神社本殿 (京都府)の彩色復原が特集されました。

当研究所所員も出演しております。

是非御覧下さい。



*** 本放送は終了いたしました ***

 

 

 


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2004年03月24日

【国宝】 平等院鳳凰堂 扉絵模写・彩色復原

TV番組放映の御案内




平成16年3月26日放送、日本テレビ『午後は〇〇 おもいッきりテレビ』(12:00〜13:55)の「きょうは何の日」のコーナーに、当研究所会長川面稜一が出演いたします。

昭和30年(1955)の[国宝] 平等院鳳凰堂(京都府)扉絵模写・建築彩色復原を特集したものです。

是非御覧下さい。



*** 本放送は終了いたしました ***

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2004年01月23日

狩野派・絵師たちの競演 二条城障壁画のすべて

1.gif二条城築城400年記念特別展
狩野派・絵師たちの競演
二条城障壁画のすべて

於:京都市美術館
 

■開催期間
2004年2月10日(火)−3月14日(日) 月曜休館

午前9時から午後5時まで(入場は午後4時30分まで)

■入場料
大人1,000円(800円)、高大生600円(500円)、小中生400円(300円)
         (  )内は20名以上の団体料金,及び前売料金

主催:「二条城障壁画のすべて」展実行委員会

     (京都市・京都新聞社・川面美術研究所)

後援:京都市教育委員会・NHK京都放送局

詳しくはこちら元離宮二条城HP

本展覧会は無事終了いたしました。

多くの方々に御来場いただきまして誠に有り難うございました。

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