平成23年9月10日、弊社代表取締役の荒木かおりが、西本願寺鹿児島別院第16期『ハートフル大学』にて、「西本願寺の至宝とその保存について」と題して講演いたしました。
当日は275名もの参加をいただき、まことにありがとうございました。
西本願寺の至宝とその保存について
文化財修復という仕事を通じ、九州とは以前から深い関わりがありました。
ここから近くで言いますと、熊本城の本丸御殿大広間の若松の間と昭君の間にきらびやかな障壁画がありますが、その制作をさせていただきました。
他にも大分県にある、平安時代の建築で国宝の富貴寺大堂の壁画の現状模写を父が行い、その後を継いで私が復原をしました。
現在は大分県立歴史博物館に復元した大堂が展示されており、皆さんにも見ていただけます。
文化財の修理は、京都におりますと「ただ今文化財の修理中」といった看板もときどき見受けられますが、他の地域ではなかなかなじみがなく、いったいどんなことをしているのかわかりにくいと思います。
本日は京都・西本願寺を中心として、文化財をどのように修理・保存してきたかをお話ししたいと思います。
文化財の修理は、修理に携わる者にしか撮れない写真があったり、皆さんの目には絶対届かないような、天井の隅の方にあるものを見つけたり、古い人の墨書を見つけたりなど、そういう小さな発見が私たちの大きな喜びになっています。
また、文化財の修理にも種類がありまして、私は特に建造物の中の装飾の部分を担当しています。
装飾といいますと、神社の場合なら朱色に塗られた柱やその上にある彫刻に施された美しい彩色を建造物彩色といって、ご本山にもそういう装飾がたくさんあります。
その建物の中でも特に、絵の具を使って行う仕事を私の専門としております。
仏像の修理なども行いますが、主には建物に付随する装飾の修理をしております。
文化財の修復の仕事は祖父の代から数えて3代目になります。
祖父は法隆寺の金堂壁画の模写に携わり、父が富貴寺大堂壁画の模写や京都の平等院の壁画の模写を行ってきました。
祖父の代から、私にも古いものが好きな血が脈々と流れているようで、現在は京都・二条城二の丸御殿に多くのふすま絵がありますが、その復原模写の事業を昭和47年から始め、今もまだ終わっていません。
私のライフワークになりそうです。
さて、本願寺については、昭和55年に唐門の修復を行いました。
唐門は本願寺の南側にあり、美しい彩色彫刻が施されています。
一日中見ていても飽きないことから、「日暮門」とも呼ばれ、国宝に指定されています。
また、飛雲閣の三十六歌仙図の修復も手がけました。
飛雲閣は「金閣・銀閣・飛雲閣」といって、“京の三名閣”といわれます。
その飛雲閣二階の歌仙の間に美しい障壁画があり、これが三十六歌仙図です。柿本人麻呂や小野小町といった歌人が杉戸に生き生きと描かれています。
また、飛雲閣の隣には黄鶴台という浴室がありまして、こちらの絵画の復原もいたしました。
そして本願寺で一番大きな建物である御影堂にある装飾の修復を平成13年から17年にかけて行いました。
北能舞台に描かれている板松のCG復原や、経蔵の中に収められている仏像の彩色の修復、大谷本廟にある二天像の修復もさせていただきました。
最近では、平成20年から23年までは白書院・虎の間の修復を、4月から始まる大遠忌法要に間に合わせるよう、みんなで力を合わせ、なんとかことしの3月に終えたばかりです。
このように、私は傷んだ文化財を修復していますが、そもそもなぜ彩色に傷みが発生するのでしょうか。
こういった杉戸絵は木地といって、木の上にまず墨で下書きをします。
それから胡粉という白い顔料を乗せ、その上から岩絵の具という鮮やかな絵の具を塗ってできています。
しかしそこに雨や風、紫外線が当たると、顔料の弱い所、特に白は日光に弱いのでとれていきます。
上から順に傷んでいき、木地もだんだんと痩せていきます。
非常に強い墨であっても、最後は木地だけになってしまうんです。
すると絵の具の塗られた所とそうでない所に凸凹ができるんですね。
その痕跡を拾っていくことで、ここに絵があったということがわかってくるんです。
凹凸を確認するためには特殊な光を当てます。
通常の光を当てて見ると、ぼんやり何かあるかな、という程度なんですが、斜光ライトという特殊なライトを当てることで木の凸凹がはっきりと浮き上がり、何が描かれていたのかが見えてくるのです。
我々はそれを手がかりに修復作業を進めていきます。
この方法で、三十六歌仙杉戸絵も修復を進めていきました。
文化財の修復は多くの人から注目されていますし、監督する人もたくさんいます。
また、何かを修理するときには必ず国の文化庁に許可をもらわなければなりません。
例えば国宝は柱一本動かすにも許可がいります。
そういうこともあり、絵画を修復するときも、なんらかの根拠、誰が見ても納得できる復原根拠を持たないと許可が下りません。
許可を取るため、私どもは文様の解析と分析に非常に情熱をかけて仕事をしています。
御影堂についてですが、まず正面に、通称『水噴きのイチョウ』という天然記念物があります。
本願寺が火事になったとき、このイチョウが水を噴き、火を消して御影堂と阿弥陀堂を守ったと言われています。
しかしこの木の存在が、御影堂修復をさらに困難なものにしました。
修復の際、御影堂や隣接する阿弥陀堂などを守るため、御影堂全体をすっぽり覆う「素屋根」をかけるんですが、イチョウの木が傷つかないように、また国宝の黒書院が傷つかないように、素屋根の設計をずいぶん苦労して設計されたそうです。
御影堂内部の修復は、50年前の大遠忌法要の際に修理された部分を生かしながら、要所をクリーニングする方法をとりました。
ご本山としては金箔を全て張り替えるので、彩色もきれいで鮮やかなものにしてほしいとのご要望でした。
しかしこれに対して文化庁はなるべく保存をしなさいという指導でした。
本願寺と文化庁の考えが正反対なんですね。
ですので、先ほど述べたような、両者の意見の間を取るという苦肉の策をとりました。
そうやって準備段階だけでも多くの苦労があり、この大事業が進められていきました。
私が本山で一番好きな彫刻に、内外陣境の十組の牡丹の木鼻彫刻があります。
これは僧侶がおつとめをする内陣と、一般の方がお参りする外陣のちょうど境の上の方にあります。
照明があまり当たらないので見えにくいかと思いますが、この牡丹がそれぞれに違うんです。
どう違うのかといいますと、北から正面へ向かうにつれて、牡丹の花が咲いていくんです。
そして正面から南に向かうにつれてしぼんでいく。
こういうなんとも心憎い演出がされていました。
こういった遊び心のある彫刻は本願寺では珍しく、これを見たときは「この仕事をしていてよかったなあ」と幸福を感じた瞬間でした。
では、今の御影堂ができたその時代、本願寺はどのように発展していったのでしょうか。
戦国時代、石山本願寺が現在の大阪城付近にあるころ、織田信長との争いで本願寺のほとんどが焼失してしまいます。
それ以降、本願寺は現在の和歌山、大阪の貝塚、天満と移転していきます。
その翌年には現在の地である京都・七条堀川の地を豊臣秀吉が与え、本願寺は京都へ移ります。
阿弥陀堂は新築され、御影堂は天満から移築されるのですが、慶長元(1596)年に、大地震によってそのほとんどが倒壊します。
しかしすぐに再興し、2年後には御影堂が上棟します。
それからも対面所を作るなどして境内の整備が進んでいきますが、元和3(1617)年、今度は火災によって唐門と鐘楼を除いたほとんどの建物を焼失してしまいます。
すぐに仮堂を再建しますが、このときに徳力善宗という人がふすま絵を描いています。
そして寛永元(1624)年に顕如上人33回忌に合わせて対面所を再建します。
上段の間に、金を使った障壁を描いたとの内容が古文書に残っています。
これは狩野派の絵師、渡辺了慶が描いたのではないかと言われています。
本願寺が京都に移ってきたころは、南蛮寺というキリスト教の教会が各地にでき、京都にも勢力を伸ばしていました。
全国にキリスト教徒が60万人いたとも言われています。
そしてこの時代の文様を見ていきますと、南蛮ものが非常に多いんですね。
これは私見ですが、キリスト教勢力の拡大を恐れた秀吉は、1589年に京都の南蛮寺の焼き討ちをし、その2年後、本願寺に七条堀川の地を与えています。
もしかしたら秀吉は、拡大し続けるキリスト教勢力に対抗できるのは、戦国大名と肩を並べるほどの勢力を誇った本願寺しかないと思ったのかもしれませんね。
いずれにしても、さまざまな苦難を乗り越えて、本願寺は京都の地へと帰る願いを果たしたということです。
…以下省略